カンボジアのストリートチルドレンが何故、英語を喋るのだろう?
―「英語がペラペラ」「英語をマスターする」という大いなる幻影
筆者は長い間、国際舞台で仕事をしてきて、多くの国を訪問してきましたが、なかでも内戦から和平に向かう1992年春先のカンボジアを訪問した時の感動や衝撃を今でも忘れることが出来ません。激動する国の姿に感動したわけですが、人々の姿にも感じるところが多かったと思います。とりわけ、それまで閉ざされていた国だったものが、突然世界に開かれた社会で、続々訪問する外国人に対して、子供たちが英語で、新聞や花を売りつけたり、父親のタクシーに客引きをする姿にかなり衝撃を受けました。当然、学校へほとんど行けていないであろうストリートチルドレンのような彼らが主として英語で商売しているわけで、もちろんごく限られた単語、表現を用いての会話ですが、それでも食っていくためには英語が必要と考え、賢明に努力しているのです。他方で、市内中心部の有名校と思しき学校周辺へ行くと、今度は裕福そうな生徒たちが、時間外で私塾に通って、英語を学んでいました(当時はフランス語の塾も多くありました)。
カンボジアの子供たち
それ以降、定点観測をするフィールドワークの国としてカンボジアを文字通り毎年訪問しています。初めは政府のお役人も英語が喋れる人がいなくて、むしろフランス語とロシア語の方が良く通じていたものでした。しかし時間の経過とともに、というか、僅か数年のうちにかなりのお役人たちが英語を話し始めたのです。
さらにそれより前の80年代中盤、筆者は国連勤務でタイのバンコクに住んでいました。当時はアジアで植民地を経験してないタイ人と日本人が一番英語が下手と言われ、日本人自身も自嘲気味にそう言っていた時代でした。ところがどうでしょう、あれから30年経過し、大学教員になった筆者は、アジアの大学から学生たちをほぼ毎年、日本に招くのですが、アジアの若い学生たちは、シンガポールやフィリピン以外でも、皆、英語が上手くなっています。タイ人の学生も英語が格段に上手くなり、今やアジアで英語が一番出来ない国民に日本人がなってしまったのです。それは主観的だけでなく、TOEICやTOEFLのスコア等によって客観的にデータで示されてもいます。こうして筆者は、日本人にとって英語って何なのだろうと30年間、考え続けてきました。
そしてある結論に至りました。日本人は完全な英語が出来る状態(ネイティブのような)を目標に真面目に挑戦しようとして、多くの人が挫折し、脱落しているのだと。シェークスピアや洋画の英語が理解出来る理想から出発するのです。
いきおい、一通りの文法や一定以上の語彙数がないと、英語など上手く喋れるはずがない、「英語をマスターする」という強い意志で勉強あるのみだし、それまでは中途半端でブロークンな英語はみっともないし恥ずかしい・・・という減点主義の考え方に陥ります。「あの人は英語がペラペラだ」という羨望を含んだ表現に、全てが凝縮されています。それだけネイティブスピーカーのように喋れるか否かが基準になっているというわけです。
他方、カンボジアのストリートチルドレンの場合は、"You need (a) taxi?"と、疑問形でもなく、語尾を上げるだけの聞き方で、単数か複数かも定かでないような、二つか三つのフレーズからスタートして、日々、語彙やフレーズを増やしていくのです。そこには挫折も脱落も無いのです。ましてや恥ずかしいとか、イントネーションがどうとかの問題とも無縁です。客を一人捕まえると、彼自身も含めて、一家がその夜、食にありつけるというわけです。
英語を主要学科・受験科目と考え、勉強しようとすることが間違い
そのように考えてくると、ある現実に気付き、そして直面します。明治以降、日本は大陸ドイツ風の教育制度を導入し、学問も、先人が打ち立て集大成した塊を体系的・演繹的に学んで行くという癖がついています。総論優先と言ってもいいでしょう。語学のクラスでは、テキストを読んで、先生から一方的にグラマーと語彙、難解な長文の読み方を教わっていくということです。それに対して英米流では、個別の事実や現象の積み重ねから、帰納的に、次第に高みや本質に迫って行きます。語学クラスであれば、双方向の具体的なコミュニケーションが重視されるでしょう。
この学びの方法論を英語の学習に即して言うなら、ドイツ風に、まずは一通りの文法や最低限の語彙などをマスターすることに重くアプローチは、幸運にもそれが出来た人はよいものの(英語の得意な人)、その過程で挫折した人(英語の苦手な人)を生み出す危険なアプローチです。文系であれば、英語が得手不得手で、一流大に行けるか行けないかの分かれ道になります。特に私立大の場合は致命的にそうです。
でもこれまではそれでも良かったのです。英語の得意な人、そうでない人が浮き彫りになり、特に文系の人たちの、会社から見た優劣の人材選別が行われていったのです。そうして英語の嫌いな人を切り捨ててやってきたのが、これまでの日本ですね。理系の人は、英語が得意であろうが、苦手であろうが、後々、仕事の現場で、自分の専門分野において、嫌でも使わざるを得ないので、実践優先で、あまり問題になりません。
こうして文系で英語の得意な人は、自然と一流大学に集中して、他の分野もそれなりにやってきたのだろうという前提で、高評価を受け、大企業へと採用されていったのです。企業では日本語力とか歴史の理解とかをペーパーテストで試験をするということはあまりしませんから。それは大学のレベルで凡そ判断するとして。
しかしそのようなやり方では大きな限界に直面したのです。受験英語が得意な人で、単語を1万語知っている人でも、極論するならカンボジアの子供たちほどにも英語が喋れないという問題に。理系の人は、そもそもマインドや発想がグローバルな上に、英語など所詮道具だと割り切れるのですが、文系の人にとっては、英語は自分たちが重きを置いてきた重要科目で、最大の武器なのです。英語ができると言っても、TOEICでいえば、600点とか700点とかのレベルです。それが実践で使えないと分かった時の衝撃は察するに余りあります。
でも英語が好き(得意)だった人の場合、まだ良いのです。彼らは比較的、挽回するチャンスは多いでしょう。好きだからこそ一人でコツコツやれる人も多いでしょう。
問題なのは、それまでは英語が苦手で、それなりに就活や昇進とか、仕事上で制約を受けてきた人たちで、彼らは、英語が苦手だから仕方ないでは済まされない時代が来たということなのです。英語が苦手というだけで、進むコースが限られたり違ってきたり、持っている能力が発揮できないとするなら、本人たちにとって、そんな悔しく、勿体ない話は無いだろうし、それは社会の損失につながり、今やそのロスを社会は容認できなくなってきています。ならばその問題を解決するにはどうすればいいのでしょうか? (続く)
タイトル 『目から鱗! 気分を変えて英語に向き合う処方箋!』 ~ 理想や虚像に幻惑されないで、足元から着実に ~
千葉大学教授 小川秀樹 (国際社会論・グローバル人材論)
1956年生まれ。79年、早稲田大学政経学部卒業、ベルギー政府給費でルーヴァン大学留学。国連ESCAP(バンコク)、在イスラエル日本大使館勤務等を経て、横浜国大大学院博士課程修了。岡山大学教授等を経て、2016年より現職。
著書に『ベトナムのことが3時間でわかる本』(明日香出版社)、『あなたも国際貢献の主役になれる』(日経新聞社)、『ベルギーを知るための52章』(明石書店)、『学術研究者になるには 人文社会系』(ぺりかん社)、『国際学入門マテリアルズ』(岡山大出版会)等、多数。