「できる!」ビジネスマンの雑学
2024年08月16日
[909]遅すぎた国防でわが国を焦土化させた日本陸軍・日本海軍

 今年(2024年)の8月15日は、日本が太平洋戦争に負けて79年目の日でした。
 敗戦後十数年のちに誕生した筆者には、当時の戦争を語れるような体験は何もありません。もちろん、縁者にはそれなりに戦争経験者はいますが。
 亡き父は徴兵(宮崎県で高射砲兵)、伯父は海軍でバリ島に駐在し抑留、母方の祖父(大叔父か)は立川飛行機でテストパイロット兼航空機設計技師として新鋭機の開発と量産(A26、隼、疾風)に明け暮れていたようです。

 とはいえ、負け戦の当事者たちが戦争について語ることはほとんどありませんでした。

 なぜ負ける戦争をいつまでも続けたうえに、日本国土は焦土化したのか。

 日本とアメリカでは、戦闘機の基本性能であるエンジン開発力に大きな差があること。欧米のエンジンのコピーでなんとか追いすがる日本軍機は、技術交流が閉じられたとたん、馬力でもスピードでも引き離されていった。だから日本は負けたのだ。そう書く戦記作家の何と多いことか。
 しかし、敗戦の原因は本当にそれだけだったのでしょうか。

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※栄三一甲型エンジン

 この問題にきちんと向き合った戦記本があります。

『局地戦闘機「雷電」 異貌の海鷲』(渡辺洋二・文春文庫)

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※本書表紙

 「雷電」という海軍機の開発からテスト運用、実戦、敗戦までの過程を丁寧に描いた名著です。この一冊を読むと、日本のある戦闘機の誕生からその終焉までを見通すことができます。

 筆者は7,8年前に購入してから、航空機の一生を俯瞰する気分で楽しく読みました。

 しかし、何度か読み直していると、著者の渡辺氏にはもうひとつ書きたかったことを忍ばせてあることに気がつきました。

 渡辺氏は陸軍の国土防衛についてこう書きます。

 「陸海軍が大正十年(一九二一年)と十二年に結んだ防空任務分担協定で、本土上空の防衛はずっと陸軍の担当とされてきた。...防衛は二の次とする陸軍の本土防衛戦力は少なく、最も充実していた第十飛行士団にしても、装備機数はこのとき一〇〇機に満たなかった。」(145ページ)
※第十飛行士団とは関東・東北の東部軍管区(筆者注)
※このときとは、昭和一九年(筆者注)

 つまり、戦争も佳境を迎えた1944年でも、日本陸軍は東北から首都圏一帯を100機足らずの航空機で防衛したつもりだったのです。このころからB29爆撃機は東京、横浜などの一都市だけでも100機単位、多い時には400~500機で来襲しています。あまりにも貧弱な防空体制でした。

 その一方で海軍は自分たちが使っている鎮守府(横須賀、呉、佐世保、舞鶴)や要港、基地は自らの手で守ることになっていました。
 言ってしまえば、海軍は自分の所有地だけ守ろうという姿勢ですから、とても国防とは言えず、日本国民は庇護の翼の外に置かれたようなもの。

 しかも、海軍の考えにもかなり偏りがありました。

「ソロモン諸島の大半を奪われて、十八年が終わった。彼我の戦力差は、もはや持久戦もおぼつかなかい状態...軍令部にはまだ敗北の意識は薄かった。」
「母艦航空隊を再建し...、米機動部隊に一大洋上決戦を挑む。この決着がつくまでは本土防空などにかまっていられないし、また敵機群が内地に来襲するのはそのあとのこと、...というのが、十九年初頭までの海軍中枢の考えだったと思われる。」(146ページ)

 渡辺氏によると、海軍の戦争分析は1944年までは戦争に負けた気がしないまま、まだまだこれからという気分だったとのことです。

 しかし、現実には、船も航空機もパイロットも失い、油がない、技術がない、鉄がない、国民の食料がない、のないない尽くしでした。

 この現実認識のなさが一気に本土に攻め込まれて、日本国土がなすがままに焦土化されていった根本原因だったのではないでしょうか。

 なお、海軍は松山基地(現・松山空港)に第三四三海軍航空隊(通称「三四三空」)を編成して国防に貢献したとあります。
 しかし、この航空隊はあくまでも呉鎮守府とそこにある軍艦「大和」を守る守備隊に過ぎません。

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※海没していた紫電改

新鋭機紫電改が出撃...呉軍港に来襲した「約350機におよぶ米海軍機動部隊の艦上機」を「三四三空」が迎え撃った空戦の「値段」
三四三空は、軍令部参謀だった源田実大佐の、「精強な戦闘機隊をもって敵機を片っ端から撃ち墜とし、制空権を奪回して戦勢回復の突破口に」、との構想から生まれた、日本海軍の最後の切り札的航空隊だった。
現代ビジネス 2024年3月19日

 1945年4月6日、大和が沖縄への海上特攻に出撃すると、相前後して三四三空は松山基地を離れて、鹿児島・鹿屋に配置転換(4月4日~4月14日)しています(「三四三空隊誌」-部隊編成・配備経過並びに主要戦闘経過-より)。海軍が守りたかったものは、日本でも国民でもなく宝物に等しい軍艦だけだったようです。

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※海軍が大切に護っていた戦艦「大和」の模型

 もしもの話ですが、三四三空が松山に張り付いたまま瀬戸内の防空に務めていれば、広島への原爆投下を妨げることができたかもというのは言い過ぎでしょうか。

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※広島県観光の際はぜひ、呉へ

 日本の本土防衛に失敗した陸軍・海軍が最後に言い出したのが「国体護持」でした。日本の国土は広すぎてとても守り切れないが、天皇ひとりなら護れるかも知れない。長野県松代に巨大な地下壕も掘ったし、海軍も日本放送協会(現在のNHK)も共に行くと言っている。
 しかし、それは最後の最後に、天皇自らが軍に護られることを拒否して、8月15日を迎えたのでした。

 こうして日本は、無条件降伏という大きな負債を背負って負けました。

 その背負わされた負債の重荷から79年を経たいまも、日本は解き放たれてはいません。近年はさらに重くなってはいませんか。そう思うのは当コラムの筆者だけでしょうか。(水田享介)

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