今日、5月27日はあの「日本海海戦」が起きた日です。119年前、1905年のこの日、ロシア帝国のバルチック艦隊と日本海軍の連合艦隊が対馬沖で激突。バルチック艦隊はほとんどの船が沈められ、東郷平八郎率いる大日本帝国海軍連合艦隊は圧倒的な勝利を収めました。
日露戦争に詳しくない方は、こちらの動画からどうぞ。
日露戦争
(NHK for School)※動画と音声が流れます。
1世紀以上も昔の戦争ですが、いまでも新発見の情報があり筆者の興味は尽きません。
「敵艦隊がいた!」バルチック艦隊を最初に発見した漁船の武勇伝のウラ側
「遅かりし1時間」怪しい美談の教訓
「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」
1905(明治38)年5月27日午前4時45分、仮装巡洋艦「信濃丸」が発信した第一報で日本海海戦は始まりました。しかし「信濃丸」から5日も前に、バルチック艦隊を発見して通報した日本の船がありました。
(乗りものニュース/月刊PANZER編集部 2024年5月27日)
この海戦を始め、日露戦争をテーマにした文学作品は数多くありますが、こんにちでも読む価値のある戦記文学と言えば、『海の史劇』,『ポーツマスの旗』(著者:吉村昭)をおいて他にはないでしょう。
また、ロシア側からこの海戦を振り返る優れた作品も残されています。
『ツシマ バルチック艦隊遠征』(著者:ノビコフ・プリボイ/原書房刊)
『リバウからツシマへ』(著者ポリトゥスキー)
これらの作品を読んだ筆者の感想は、戦争は軍隊だけで戦うものではないということです。バルチック艦隊はロシアの軍港を離れてから喜望峰を回るまではイギリス海軍から、マダガスカル島からベトナムまではフランス軍からさまざまな妨害、嫌がらせを受けて、次第に疲弊し戦闘能力を失っていきます。
また、ポーツマス条約締結に協力して、日露戦争を終わらせたアメリカの存在も忘れてはなりません。
日本海海戦は、海外では「対馬沖海戦(Battle of Tsushima)」と呼ばれており、対馬島のすぐそばで起きた海戦です。
実は日本とロシアはこの海戦を遡ること44年前、1861年に対馬島で紛争が起きています。「ロシア軍艦対馬占領事件」(対馬事件とも)です。
日本近海の島の植民地化に興味を示したイギリスに対抗するように、ロシアの軍艦が対馬島にやってきて、占領と宿営地建設を行いました。
島を治めていた対馬藩は、飛び地の肥前田代から農民を集めて対馬に送り込みますが、当然のように兵力にはならず、また藩内政争のため、領民らは田代への帰郷もなかなか許されず、食事にも事欠く苦労を味わいました。(※1)
有効な対策を打てずにいた対馬藩ではあまり知られていませんが、藩主の宗家はひそかに幕府に領地変えを願い出ています。
江戸時代末期、まだ軍艦どころか海軍すら持たない日本は外国の侵略を軍事力で排除することはできず、半年にわたり国土を占拠されました。
それがわずか50年足らずで、相手の艦隊と互角に戦えるまでに成長した日本。
明治期の日本は、友好国の形成にかなり努力していたことがよくわかります。
国境問題、難民問題を始め、紛争の絶えない21世紀。これからの日本の行方はどうなるのか。歴史を振り返り今後の参考になればいいですね。(水田享介)
※1
「六 対馬出陣と両派の葛藤」(鳥栖市史研究編 第二集「幕末 田代領政争の研究-仙八さん騒動の顛末-」)より
https://www.city.tosu.lg.jp/uploaded/attachment/2875.pdf