4月1日は平成の次にくる新元号発表の日です。このコラムが出る頃には、新しい元号は発表済みのことでしょう。
いったいどんな元号だったでしょうか。平成の時と同じように、官房長官から「新元号はこれです」と呈示されたはずですから、筆者を含め一般国民には興味のもって行き所のなさを感じるイベントだったことでしょう。
NHKでは、さっそく新元号についての特設サイトを用意しています。
「平成の次 新元号は?」
(NHK NEWS WEB 2019年3月28日掲出)
新元号の名称は、どのマスコミでも他社を出し抜いてでも報道したかったようですが、「事前に漏れたら変える」という政府方針のため、スクープのしようがなかったようです。地道に町の声を取材した記事が多く収録されています。
特設サイトをみると、今回の改元にあたり人々の反応はふたつのパターンに分かれているようです。
平成に思いをはせる人、困惑する人
・平成31年刻印のコインが人気
・長崎の平成小学校は閉校します
・改元に乗じた詐欺事件が多発
次の時代を見ている人、はりきる人
・改元の日(5月1日)に婚姻届
・訂正ハンコ、高速作成
・10連休をどう過ごす
・休日返上、電算システムの改元対応
・改元後に出産します宣言
過ぎ去った過去を振り返るとき、10年前、20年前という無味乾燥な数字と違い、時代を区切る元号は、日本人の心にひびく象徴でもあります。
「降る雪や明治は遠くなりにけり」
(中村草田男)
昭和生まれのある年齢以上の方々ならば、この句が、明治生まれの作者が、大正の次にやってきた昭和に感じた脱力感や虚無感に近い、ある種の感慨を詠った句ということが、自然にわかるのではないでしょうか。
元号だけが持つ不思議な魔力と言えそうです。
この句は、老境を迎えた明治生まれの作者が、火鉢にあたりながら、電気もラジオもなかった静かな明治時代、遠い昔の明治を懐かしがって作ったものだろうと、筆者は思い込んでいました。
ところが、そうではなかったのです。
この句を作ったとき、中村草田男は老年でも壮年でもなく、まだ31歳でした。
昭和6年(1931)、東京・青山にある母校の小学校を20年振りに訪れた草田男は、下校する小学生を見かけ「後輩たちの思いがけない姿に衝撃」を受けます。
「裏門から走り出してきたのは金ボタンの外套(がいとう)を着た児童たちであった。作者の幻想の中では、黒絣(くろがすり)の着物を着、高下駄(たかげた)をはき、黄色いぞうり袋をぶら下げた明治末期の小学生でなくてはならなかったのに。」
「悠久の名詩選」より
(公益社団法人 関西吟詩文化協会)
1911年の自分を20年後の1931年に振り返って詠んだ句です。実はこの1911年にも意味がありそうです。翌年の1912年は明治45年ですが、この年7月30日に明治天皇崩御、同日大正に改元されました。
昭和の時代に入り大人になった作者が、改めて明治を振り返ったとき、元号の変わり目を体験し、粛々と明治を見送った子供時代の感慨を詠んだ句ともいえそうです。
その気分がわきおこったきっかけとして、小学生の服装が和装から洋装にかわっていたことの驚きがあったのでしょう。
さしずめ今の時代、改元にあたり、私たちはどんな状況に遭遇すれば、このような名句を詠むことができるのでしょうか。
・タバコの火を貸してもらおうと思ったら、相手は電子タバコを吸っていた。
・漢字の書き取りテストを始めたら、生徒全員が机の下にスマホを用意していた。
・生徒に故事のいわれを教えようとしたら、ささっとググられた。
・孫娘に小遣いを渡そうとしたら、少額ならスマホに送ってねといわれた。
どんどん味気なくなるので、ここらでやめておきます。(水田享介)