ただいまNHK総合で放映中の朝ドラ「まんぷく」といえば、日清食品の創業者である安藤百福氏がインスタントラーメン、カップ麺を発明するまでの紆余曲折を描いたドラマですね。
今週で最終回なのが惜しまれますが、3月25日(月)の回で気になるシーンがありました。
ラーメンのパッケージデザインをてがけた画家の義兄、要潤さんが発したひと言。
「あのゴッホでさえ、生きているうちはたった一枚しか絵が売れなかった」
というくだりです。
確かに日本では、ゴッホといえば、生前、描いた絵が一枚しか売れなかった、もしくは一枚も売れなかったとよく紹介されます。絵に人生を捧げた破天荒な兄ゴッホと、それを温かく見守り経済的支援をいとわなかった弟のテオ。日本では美しい兄弟愛というストーリーの伝記も多いようです。
テオはまったく絵が売れないシロウト画家のゴッホを、最期まで金銭面でも精神面でも支え続けた殊勝な弟だった・・・。
これが日本での一般的な通説のようです。
ゴッホは売れもしない絵を愚直なまでに描き続けた日曜画家、当時のパリ画壇ではプロとは認められず、レベルの低いシロウト画家だったのでしょうか。
人は絵を見ず自分の目を信じず、噂や伝聞のみを気軽に信じるもののようです。
実際はそうではなかったのです。丹念な検証作業により、本当のゴッホの姿が明らかになっています。
ゴッホ 契約の兄弟 新関公子著 神話の再考を促す緻密な労作
今年6月、オランダのゴッホ美術館の所蔵するゴッホの自画像のうち1点が、実は弟テオを描いた肖像画であることが判明したと報じられた。長らく誰もが自画像だと信じて疑わなかったほど、その容貌はゴッホに酷似している。ゴッホにとって、テオは兄弟というよりも自己の分身のような一心同体の存在であったのだろう。
(中略)
画家の兄と画商の弟は、早い時期に契約を結び、兄が制作した全作品を弟に提供するかわりに弟は兄に毎月一定の生活費を送金するという対等な関係になった。敏腕の画商であったテオは、純粋な兄弟愛から契約したというより、兄の才能を冷静に見極め、成功することを確信していたという。実際、ゴッホは生前から画家仲間や一部の批評家に非常に高い評価を得ていた。
(日本経済新聞 2011年12月14日掲出)
書籍『ゴッホ 契約の兄弟』は8年も前に出版されていますが、その研究成果は世間には行き渡っていないようです。
詳細は書籍を読んでいただくとして、筆者もいくつか検証してみます。
‐毎月150フランを提供し、その代償としてその月に制作した全作品を受け取る~1884年3月末日頃にゴッホとテオの間に画家と画商の契約は成立した。
(『ゴッホ 契約の兄弟』 56~58頁)
‐「テオが転居費用50フランを送金」、
‐「1885年11月 アントウェルペンに月25フランで絵の具屋の二階に下宿」
(同上 81頁)
上記の記述は、ゴッホがパリに出る前、画家として生きる決意をしたオランダ時代(1884~1885年)を指しています。
当時の1フランを今の貨幣価値で千円~千五百円とすると、25フランの下宿は2万5千円~4万円弱相当で借りたことになります。アントウェルペンとはアントワープのことで、州都とは言えベルギーの地方都市ですから、日本で言えば地方のちょっと賑やかな町に下宿を借りたようなものでしょう。
ゴッホは描いた絵をテオに送る代償に、毎月150フランを受け取り始めました。これは現在のお金で言うと毎月15万~23万円の報酬を得ていたとみることができます。
この援助というには決して少なくはない金額から、もうひとつ深い関係性が見えてきます。兄弟はただの家族愛だけでつながっていたわけではなかったのです。
テオはこのころパリでは名うての画商でした。兄のただならぬ画才を見抜いていました。そして、ゴッホの生活を支援する代わりに、ゴッホの作品を独占的に扱う契約をした‐それが真相だと、この本では説明しています。
ゴッホから弟テオへの手紙にもそれを裏付ける記述があります。ゴッホは描いている作品の構図や配色をスケッチを交えて事細かに説明した手紙を頻繁にテオに出しています。また、描き上げた作品は自身の手元に置くことなくテオに発送しています。
さらには、いっこうに作品を世に出さず売ることもしないテオに、いつまで自分を無名にしておくつもりだと皮肉をこめた手紙も送りつけています。時には別の画商に持ち込んでもいいんだぜと脅してみたりと、まさしく画家と画商の関係です。
ゴッホは弟からの送金は自分が絵を描いた報酬と考えていたのです。
さらに、アルルに移る際に、ゴッホはかなりの金額を弟に要求しています。
1888年2月。ゴッホはアルルに新しい創作拠点を設けました。ゴーギャンを呼び寄せて共同生活も始まりました。あまり知られていませんが、ゴーギャンの借金を清算し、旅費を持たせてゴッホの待つアルルへ送り出したのもテオでした。
‐1888年2月~10月 合計2320フラン送金
‐150フラン月 9月は300フランの別枠送金
(同上 130頁)
アルル時代、テオはゴッホに、8ヶ月間で350万円(2320フラン)もの送金をしています。もちろん、ゴッホはそれ以上の見返りを絵を描くことで果たしました。
「アルルの跳ね橋」、「郵便配達夫ルーランの肖像」、「夜のカフェテラス」、「ひまわり」の連作など、数多くの名作は、このアルル時代に描かれたものです。
ちなみに、ゴーギャンの絵が初めてまともな価格で売れたのは「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」(1898年作)で、完成から3年後の1901年、2500フランでようやく買い手が付きました。
プロの画家として認められたゴーギャンは、1899年頃より画商から毎月の契約金を受け取ることになりますが、その金額は月額300フランでした。
テオが月額150フランを送金していたことは、兄弟愛からの援助ではなくプロの画家としての報酬、作品を独占できる契約金だったのは間違いないでしょう。
早くから画商付きの画家であったゴッホは、少なくともゴーギャンよりも恵まれていたことは確かです。
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こう書く筆者も、ゴッホの絵が売れなかった話は聞き知っていました。しかし、おととし開催されたゴッホ展で数多くのゴッホ作品を鑑賞したあとは、その伝説に疑問を持つようになりました。
[487]まだ間に合う、浮世絵コラボのゴッホ展。都美術館
(当コラム 2017年12月27日)
いずれの絵も見るものをひきつけて離さない量感溢れるタッチですが、これだけの絵の具を日々使っているとしたら、相当の画材費がつぎ込まれています。
百年以上経ても作成時の品質が保たれる絵を描くには、それ相応の技術と経済力が必要です。売れない絵を描いていたしろうと画家のものではありません。
テオは画家が描くそばから売るようでは、安値で買いたたかれるだけだとわかっていました。作品がそろった所で個展を開催しながら、ゴッホ作品の価値を高めていくつもりだったようです。
ただ、ふたりにはそんなに時間は残されていませんでした。
一枚も売れなかった画家が、死後に評価されて、その絵が高値で取引される。
お話としてはおもしろいでしょう。実は悲しいことに、ゴッホはそうなることを予期しており、避けられない運命と自覚していました。自殺する年には、自分が死ねば君には大金が手に入るよとテオに書き送っています。
ゴッホ自身も画商の経験があるので、画家の絵の価値がどのようにして高まるのか熟知していたのです。
ゴッホが自殺した理由については、新関氏の著書を読んでただくとして、ゴッホは1890年、自死を選びました。
ゴーギャンはゴッホの死を知ると、ゴッホの作品を自分の絵と交換して欲しいとテオに頼んだそうですが、断られています。
ゴッホの死からわずか6週間後、テオはゴッホの個展を開き成功を収めます。しかしわずか半年後にテオは病没してしまいます。
ゴッホの絵画作品と書簡はテオの妻、そしてその息子へと引き継がれ、ほとんどの作品は散逸を免れて、最終的にはゴッホ美術館に収まり、現在に至ります。
「After Vincent's Death」
(ゴッホ美術館 公式サイトより)
つまり、昔も今も、ゴッホの絵はほとんど売れていません。いえ、売られることを拒み続けてきたといっていいでしょう。
ゴッホとテオの兄弟がしかけた壮大な絵画ビジネスは、ふたりの死によって挫折しました。しかし、そのおかげで、どんなに莫大な価格がつけられても、売られることのない名画コレクションとなったのです。
絵が売れなかった画家、ゴッホ‐まだ、そう信じますか。
本当のことは描かれた絵画にあり、それは美術館にあります。美術館に行きましょう。(水田享介)
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■関連リンク
Van Gogh Museum 公式サイト
Van Gogh Museum 「美術館に行こう」公式サイト(日本語)