「できる!」ビジネスマンの雑学
2016年06月03日
[247]江戸時代のギャル達が作った富国ニッポン。乙女の奮闘記「富岡日記」

 明治維新後の日本は「富国強兵」だったと学校で習いました。強兵は徴兵制の開始、軍隊の創設、軍備の増強でしたね。では、富国とは具体的には何だったのでしょう。

 明治の初め、日本にはさしたる工業もなかったため、輸入品の支払いは蓄えていた金貨・銀貨しかなく、大量の金が海外に流失しました。これでは国は持ちません。

 そのために国を挙げて始めたのが、生糸(きいと・絹糸のこと)の生産でした。ちょうどそのころ、ヨーロッパでは蚕(かいこ)の病気のため、絹糸の調達が困難に陥っていました。
 目を付けられたのが、病気に冒されていない日本の蚕。最初は蚕の卵を輸出していましたが、自前で絹糸を生産した方がはるかに儲かることに気付いた明治政府は、近代的な生産体制を整え、国家事業として生糸生産を始めたのです。

 そうして誕生したのが、先日世界遺産にも登録された「富岡製糸工場」です。設立は明治5年の1872年。
 設立間もない富岡製糸場に女工として集められたのは、まだうら若い10代の乙女達。みな明治どころか、生まれも育ちも江戸時代です。

 「富岡日記」(ちくま文庫・著者:和田英著)は明治6年、著者の英子がわずか満15歳(本の表記では数え17歳)で女工に応募する顛末から始まります。満15歳といえば、いまに直すと中3から高1の思春期真っ盛りのギャルですね。

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 この日記には、全国から集められたお年頃の乙女達が、どのように生糸生産に従事していたのか、また日々の生活をどうすごしていたのかが、活き活きと描写されています。
 おそらく日本最初の職業婦人が誕生したのが、ここ群馬県富岡市だったのです。

 手に職を持つことで、著者は精神的に大きく成長します。

 二等工女に昇進した著者は、ふるさとの長野県松代市に設立された近代的製糸工場に移ります。手腕を見込まれた彼女は、10代後半でふるさとの製糸工場で現場リーダーとして抜擢されたのです。

 エピソードのひとつにこんな話があります。
 横浜の生糸市場に英子達の指導で作った機械織り生糸が初めて持ち込まれました。周囲は手工業で作った真っ白な生糸ばかり。それにひきかえ、機械織りの生糸は少し黒ずんだようにも見えて、同業者たちに笑われていました。
 ところが外国人の評価は違いました。この機械織り生糸ならいくらでも買うと、最高級の値段が付いたのです。
 最先端の機械織りが安定した高品質であることを、海外の買い付け人は知っていたのです。

 「富岡製糸工場」は明治5年に建てられたそのままの姿でいまも残っています。つまり、著者の和田英が働いていた現場がまだ現存しているのです。明治期の建物と言うだけではなく、「富岡製糸工場」こそ近代日本を支えた女性の歴史そのものと言えるでしょう。

 江戸時代にわずかな教育しか受けていなかった娘達が、すぐに近代の工場労働に慣れて、生産に従事していた事実。そして数年後には指導者として全国各地のふるさとに戻り活躍した歴史。これが「富国」の本当の姿でした。

 そのたくましさと知性、行動力を記した行間からは、今の私たちが失ったスピリッツを教えているように思えました。(水)

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「富岡日記」(著者:和田英 筑摩書房・ちくま文庫収録)

養蚕の歴史を知るには・・・
東京農工大学科学博物館(1886年設立)
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