国家や権力者に栄枯盛衰はつきものです。日本の歴史を見ても、織田信長や豊臣秀吉は政権の継承は果たせず、長期政権を打ち立てた徳川家も、最期は戦わずして城も権力も投げ出しています。
今でこそ盤石の風格を見せる大企業も、一度は風前の灯火を味わったようです。
インテルを危機から救ったグローブの一言
世界の半導体市場で揺るぎない地位を築いた米インテル。だが、マイクロプロセッサ(MPU)に事業をシフトする直前の1985年当時、インテルはDRAM市場の価格競争に飲み込まれ、深刻な経営危機に陥っていた。
なぜインテルにとって、DRAM市場から撤退し、全精力をマイクロプロセッサに注ぎ込むのはそれほど難しいことだったのか? それはまちがいなく、地獄のように辛い日々だった─実際にそれを体験した人々は苦痛に満ちていたと語っている。ベンジャミン・フランクリン流に言えば、だれでも自分の意向に沿った理屈を見つけられるものだ。インテルの首脳陣も、あらゆる理屈を使って、新たな挑戦を避けようとした。
(「日経BizGate」より抜粋 リチャード・S・テドロー)
革新的なCPUを次々と開発しているインテルが、その昔メモリを作っていたとは知りませんでした。(インテルが製造・販売しているSSD(※1)はメモリではないかとは言われそうですが。)
(右下緑色のチップ:インテル社のモバイルCore i5 CPU。
左下:16GBメモリは32MBメモリの半分以下のサイズで容量は500倍。)
さらにインテルのメモリ撤退の原因は、その後に日本の半導体メーカーが韓国企業にしてやられたことと全く同じ図式であったことにも驚きました。
では、日本の企業がこの事象をきちんとリサーチしておけば、のちのメモリ戦争の敗北と撤退は防げたのでしょうか。
上記の記事を読んだ筆者は、そうは思えませんでした。インテルがなぜメモリから撤退したのか、いや最小限の痛みで撤退でき、よりダイナミックな飛躍を果たせたのか。インテルの首脳陣が下した苦渋の決断と同じことが日本の経営陣ができたのかと問われると、できなかっただろうと筆者は考えます。
そうしなければならない判断材料は揃っていて、そうすることが妥当であるが、最後の決断ができない。
まわりくどい言い方ですが、目の前のリスクにとらわれると、いわゆるジレンマに陥りがちです。
リスクを伴う決断は、できる限り自分の代では避けたい。まだ時間はある。いまやるべき最善の決断は・・・。そうだ、いい考えがある。もっとせっぱつまった時にこそいい考えはでるものだ。最終決断は次の経営陣に任せよう、と考えた結果がメモリ戦争の敗北を招いたのかもしれません。
これはあくまでも筆者の想像ですが、日本の半導体メーカーはサラリーマン経営者にありがちな対応をしてしまったのではないでしょうか。
大きく舵を切らないことが企業を守ることと思ってしまえば、経営者は楽なものです。判断材料を並べてはマイナス評価さえしておけばいいだけですから。後から責められても「そうしなかった理由はいくらでも言える」わけです。
では、インテルはどんな言葉で救われたのでしょうか。その答えは下記のリンク先の記事を最後まで読んでいただいた方がよさそうです。
「インテルを危機から救ったグローブの一言」
リチャード・S・テドロー
(日経BizGate 2015年6月18日 「なぜリーダーは「失敗」を認められないのか」)
http://bizgate.nikkei.co.jp/series/008764/index.html
日本でもパソコンは設計できた、ウィンドウズより優れたOSを作れた、iPodは日本が先に作れた、という声をよく聞きます。
日本が生んだ技術だった、アイデアはあった、タイミングを失した。ひとつひとつは真実を語っているし、そうかもしれません。
しかし結果を見ると、その技術をまとめ上げて資金を調達し、リスクを負って製品化する挑戦者が、日本にはひとりもいなかったではありませんか。この根源的な問題を理解して、若いリーダーを育成しようという機運は、今もって日本にはないようです。
その原因としては、ディレクションやプロデュースという垣根を取り払う職種が日本の企業に定着しないことに由来するのかもしれません。(水)
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※1.SSD=[Solid State Drive ソリッド・ステート・ドライブ]:電源を落としてもデータが消えないメモリで作られた記憶媒体。ハードディスクに代わる記憶装置として普及が進んでいる。