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 みなさんは雑誌を購読する習慣をお持ちでしょうか。ネットやスマホの普及で、手軽に最新情報を入手できるようになった今、雑誌を定期購読する人も少なくなりました。

 読み捨てられる運命にある雑誌を、明治時代のものから集めた都立図書館がもうすぐ国分寺市にオープンします。

多摩図書館 広さ満喫...29日移転オープン
 立川市から国分寺市泉町に移転された都立多摩図書館の開館記念式典が24日、同図書館で行われた。利用開始は29日から。
 都や同市、都内の公立図書館の関係者ら約120人が出席した式で、小池知事は「『利用者ファースト』を目指した。集い、学び、読書の楽しみを伝える場所として利用していただけたら」とあいさつ。同市の井沢邦夫市長は祝辞で、「国分寺市は東京の中央に位置し、図書館最寄りのJR西国分寺駅は中央線と武蔵野線が交差しており、利便性が高い」とアピールした。
(中略)
 新施設は3階建て、延べ床面積約8900平方メートルと広くなった。所蔵する雑誌約1万7000タイトルのうち約6000タイトル、子供の本約22万冊のうち約8万冊が閲覧エリアや開架書庫にあり、自由に手に取ることができる。
ヨミウリ・オンライン>地域>東京多摩 2017年1月25日掲出)

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(新しい多摩図書館の全体像:東京都立図書館サイトより引用)

 もともと立川市にあった都立多摩図書館ですが、老朽化のためこのたび国分寺に移転したもの。

 平日は午後9時まで開館していると言うことですから、仕事帰りに立ち寄ることもできそうです。これを機会に雑誌の良さを再発見してはいかがでしょうか。(水)

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■関連リンク
都立多摩図書館


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 挿絵画家、絵本作家として有名な安野光雅氏ですが、すぐれた文筆家としても知られ、数多くの著書があります。

 『絵のある自伝』(文藝春秋刊 2011年)は、氏の生まれ育った山口県津和野の幼少時代に始まり、戦前戦中の学生時代、戦後には教員に就いてからの失敗話など、画家として大成するまでの苦難の歴史が、訥々(とつとつ)と語られています。

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 この本は「私の履歴書」(日本経済新聞 2011年2月)の連載に加筆したものとありますから、新聞で目にされた方も多いことでしょう。

◆安野氏が画家になるまで

 失礼ながら、安野氏が育った山口県の田舎ではプロの絵描きに会えることはめったになかったようです。氏は通信教育や入門書を頼りに、独学で絵を学び始めます。
 人づてに名の通った絵描きが来たと聞くと、作品を持って押しかけたり、初対面であってもプロになる方法や絵の奥義を聞いてみたり。数多くの絵画ファンを持つ安野氏にしても、若い頃には涙ぐましいほどの努力をしていたことがわかります。

 どうやったら絵描きになれるのか。いつも考えて生きていたから、安野氏のいまがあるということでしょうか。

 とはいえ、いきなり絵描きだけで食べてはいけません。糊口(ここう)をしのぐための就職活動や面接で、いくつもの失敗がありました。ようやく教員になれても、安請け合いで専門外の音楽の授業を持たされ苦労した話など、決して順調な歩みではなかったようです。

 安野氏はその当時を振り返っては反省します。

 わかっていながらなぜ人は、やらずもがなの苦労と失敗につながる隘路(あいろ)に入り込むのか。

 過ぎ去った過去に対して、たびたび自問しています。

 しかしそれは結果を知ってしまった今だから、そう言えることなのです。
 試練に直面していたその時は、自分が持ち合わせていた知識や行動力を精一杯使ってもがき苦しんでいたのです。
 だからでしょうか。安野氏は当時の自分自身に対して、あくまでもやさしく懐かしむような語り口です。
 失敗も後悔もいっさい包み隠すことない率直な筆に、読者はいつの間にか引き込まれていきます。

◆戦争体験と戦時下の生活

 1926年の昭和元年(大正十五年)に生まれ、昭和とともに歩まれた安野氏は、19歳にして「召集令状」を手にして入隊します。絵描き志望の繊細な青年にはつらい体験でした。

 「防空演習」の実態、「千人針」のいわれ、「出征兵士の家」、「奉公袋」・・・。日本国民がみな連帯して耐えていた、戦時中の思い出が数多く語られます。筆者もこれを読んで、両親から聞くことのなかった戦時下の昭和の生活を初めて知ることができました。

 2016年のキネマ旬報で1位に選ばれたアニメ映画、『この世界の片隅に』にも通じる、貴重な戦時下生活の記録ではないでしょうか。

 本のタイトルの通り、氏自身の手による挿絵も収録されており、文章と一体となった絵を鑑賞しながらページを繰(く)る楽しさがあります。

 そのなかでも、安野氏の渾身の力作、1970年の年賀状はぜひ見ていただきたいですね。

 最後に、本文からひとつ抜粋。(水)

 彼女はわたしにいった。
 「ヒトリ ダマリノミチ ナガイ
  フタリ ハナシノミチ ミジカイ」

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■関連リンク
安野光雅美術館 公式サイト
安野光雅 未公認サイト annomi


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 筆者は最近知ったのですが、NHKのテレビ番組「ブラタモリ」が毎週放送されるようになっていました。番組の中で地形の高低差を地道に調べて歩くタモリ氏の姿には、いつも感心させられます。

 この番組の中で、今年の大河ドラマの影響でしょうか、大坂城の成り立ちに迫っていました。

 テレビ番組では、大坂城は豊臣秀吉がこの場所を交通の要所と目を付けたことが始まりと紹介していました。そのこと自体は間違いではないのですが、実は未開の荒野に大坂城ができたわけでもありません。

2016121401.jpg

 司馬遼太郎氏の『十六の話』(中公文庫)に、この大坂城成立までの経緯が、事細かに記されています。

 16世紀当時、今の大阪と目される一帯は、今ほど埋め立ては進んでおらず、この付近まで入り江が入り込む地形だったそうです。のちに大坂城が建つことになる上町台地だけが南北につらなっていました。
 またこの地域は、西には瀬戸内海が開け、東は川を利用して船で京都に行ける交通や交易の要所にはうってつけでした。
 政治の表舞台の京都を中心とした関西一帯ににらみを利かせるには、大阪の地はまことに都合の良い場所だったようです。

 この格好の場所を最初に拓いたのは、武士ではなく仏教徒たちでした。歴史には「石山寺本願寺」という名前で残されています。

 「本願寺中興の祖」と呼ばれた蓮如から派生したこの石山本願寺は、1533年この上町台地の北端に建立されました。
 その後、この場所に目を付けた織田信長は10年に及ぶ戦いののち、1580年に石山本願寺を追放して、ようやくこの地を手に入れたのです。

 その勝利からわずか2年後の1582年、この場所に城を築く間もなく、信長は本能寺の変で歴史の舞台から姿を消します。

 その後の歴史はすでに皆さんがご存じの様に、翌年、豊臣秀吉は待ちかねたように、この地に大坂城の築城を始め、1585年には壮麗な大坂城天守を完成させています。

 豊臣秀吉が大坂城を築城したのが信長の死からわずか3年しか経っていなかったのです。昔の人は寿命が短かったと言われますが、やることなすことすべてが早いことがよくわかりますね。

 『十六の話』に収められた「大阪の原形 -- 日本におけるもっとも市民的な都市」、「文学から見た日本歴史」の二篇は、こうした歴史的経緯とともに、歴史の中に埋もれていた人々がいきいきと動き始めて目の前に現れてくる作品となっています。

 ドラマだけでは伝わらないもう一歩踏み込んだ歴史を知りたい方は、ぜひご一読ください。(水)


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 2016年11月22日午前5時59分、福島県沖でM7.4、震度5弱の地震が発生して、再び東北地方に津波が押し寄せました。
 幸いにして、今回は「3.11(東日本大震災)」のような、甚大な被害はなさそうです。

 ところで、3.11発生直前には、2月22日に「カンタベリー地震」がニュージーランドで起きていました。
 今回も11月13日にニュージーランドでM7.8の大地震が発生しています。このニュージーランドの地震は、再び日本に地震が起こる予告ではないか、と噂されていました。根拠のない情報でしたが、図らずも的中してしまいました。

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※11月13日のニュージーランド地震で取り残された牛たち

 ただ、日本とニュージーランドで起こる地震の関連性は研究されたわけではなく、経験則での話に過ぎません。
「2016年11月13日ニュージーランドの地震に伴う地殻変動」
(国土交通省 国土地理院 2016年11月17日発表)

 私たちが地震でわかったことは、大地も海も不変ではなく、一瞬にして数十センチ、時には数メートルも割け、時に陥没し、時に飛び上がり襲いかかる不安定なもの、ということだけです。

 ここで災害に備えて読んでおきたい本をご紹介します。

 3.11が起きる40年以上も前に、吉村昭氏が三陸地方を丹念に歩き、村の言い伝えや記録をまとめて1970年に出版された労作、『三陸海岸大津波』(著:吉村昭 文春文庫 原題『海の壁‐三陸沿岸大津波‐』)です。

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 内容は、明治29年(1896年)の津波、昭和8年(1933年)の津波、昭和35年(1960年)のチリ地震津波、の三部構成となっています。

 特に貴重なのは、「明治三陸地震(明治29年の津波)」を体験した証言を元に、当日の模様が生々しく描かれていることでしょう。証言者たちがその恐怖を語ったとき、すでに80代半ば。話を聞くことができた最後の機会だったと吉村氏は述べています。

 また、吉村氏はたびたび三陸地方を訪れて、地震や津波の恐ろしさを講演でも語っています。
 「昭和8年の津波については、田老町(当時は田老村)で貴重なものを見つけた。田老尋常高等小学校生徒たちの作文集であった。子供の鋭敏な目に津波がどう映ったか、興味をいだいたが、読んでみると、予想通りのすぐれた作文ばかりで、しばしば目頭が熱くなった。
 (中略)
 田老町の被害は甚大で、異様なほどの防波堤が海岸ぞいにのびている。」
(『「三陸海岸大津波」 あとがき---文庫化にあたって』より引用)


 「熱心に私の話を聴いて下さったが、話をしている間、奇妙な思いにとらわれていた。耳を傾けている方々のほとんどが、この沿岸を襲った津波について体験していないことに気づいたのである。」
(『「三陸海岸大津波」 再び文庫化にあたって』より引用)

 田老町の巨大な防波堤を見た作者はそれを「異様」と形容しました。また、東北地方から津波の恐ろしさの伝承が消えつつあることを「奇妙な思い」だったとさりげなく伝えています。

 3.11では、田老市は200人近い死者・行方不明者を出しています。「てんでんこ」が伝わらなかった地域では、人的被害は甚大でした。

 この本のあとがきは、こう締めくくられています。

 「今も三陸海岸を旅すると、所々に見える防波堤とともに、多くの死者の声がきこえるような気がする
 平成十六年新春     吉村昭」
(『「三陸海岸大津波」 再び文庫化にあたって』より引用)

 吉村氏は2006年に物故されて、2011年の「東日本大震災」を知ることはありませんでした。しかし、氏には防波堤の向こう側から、憂える「死者たちの声」が耳に届いていたのでしょう。
 そのことを、のちに書き加えた「あとがき」で伝えたかったのかもしれません。

 現代の科学では、いまだ地震を予知することは不可能です。

 当分の間は気を抜かず、わたしたちは歴史に残された警鐘に耳を澄まし、できる範囲での防災に努めるしかなさそうです。(水)


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 最近、漱石の話題をよく耳にするようになりました。

 なんでも今年は漱石の没後100年を迎えるそうです。(朝日新聞・特集 『夏目漱石「吾輩は猫である」』より)

 テレビドラマあり、新聞では「吾輩は猫である」の連載やキャンペーンありと実に賑やかです。しかも来年は、なんと生誕150年(※1)

 生まれても亡くなっても、話題に事欠かない実にありがたい文豪です。

 筆者が「吾輩は猫である」を初めて読んだのは中学一年生の時でした。教科書の「坊っちゃん」で漱石を知り、同じような面白さを期待して読み始めたは良いものの、「猫」の何がおもしろいのかさっぱりわかりませんでした。しかも現代語訳の子供向け抄訳でしたから、人の話を理解するめずらしい猫だなぁと思うまもなく、あっというまに酔っ払って死んでしまったのです。

 ところが、高校生になって『漱石全集(※2)』に収録された原文で読んだところ、「猫」の面白さがその軽妙洒脱な文体にあることにようやく気が付いたのです。
 小さい頃に「猫」を読んで退屈と感じた方は、ぜひ漱石が書いた当時の原文で一読されることをおすすめします。

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 さて、いまや大文豪の名をほしいままにする漱石ですが、正岡子規の著作(※3)に漱石の意外な一面が描かれています。

 子規は若い頃の雑文の中で、友人達を細かく分類していますが、漱石をただひとり「畏友」(「筆まかせ」明治22年 『子規全集 第9巻』収録)と称するほど、夏目金之助(漱石の本名)を尊敬しており、親交も深かったようです。

 また、漱石の俳句も高く評価もしています。
 「我俳句仲間に於いて俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率いるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。(中略)之を思ふに眞の滑稽は眞面目なる人にして始めて為し能ふ者にやあるべき」(「墨汁一滴」・1月31日」より ※4)

 そんな漱石と子規の関係ですが、あるとき、二人が連れ立って都内の早稲田付近を歩いていたときのこと。事件が起こります。
 「余が漱石と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田甫(たんぼ)からは一丁か二丁しかへだたっていない處である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田甫を散歩して早稲田から關口の方へいたが大方六月頃のことであつたらう、そこらの水田に植えられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。此時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米は此苗の實(み)である事を知らなかつたといふ事である。」(「墨汁一滴・5月30日」より)

 原文では筍(たけのこ)が竹になることを知らなかった四十女から始まり、しまいには「都の人が一疋の人間にならうと云ふのはどうしても一度は鄙(ひな)住居をせねばならぬ」と締めくくっています。

 四国・松山に育った子規から見ると、漱石は江戸生まれ、東京育ちの都会っ子ですから、何でも知っているやつと心の中では恐れがあったかもしれません。ところが、その漱石は高等中学(のちの旧制の第一高等学校)に通う秀才にもかかわらず、毎日食べているご飯がどうやってできているかを知らなかったのです。

 英国留学まで果たした漱石にもこんな常識外れもあるんだよと茶化してみせる子規ですが、このとき明治34年(1901年)、子規はすでに病床にありました。
 その死まで一年あまり。子規は冴えわたる筆で、若き日の漱石を懐かしく写生してみせたのです。

一方、漱石はと言えば、英国留学中(1900~1903年)に神経衰弱に陥って下宿に引きこもっていたのです。
 子規が書き送った「モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ」(明治34年11月6日の手紙)にも遂に返事を書くことはありませんでした。(※5)

 子規が見抜いていた漱石の「滑稽趣味」がようやく発揮されるのは、子規の死から3年後の明治38年(1905年)、雑誌『ホトトギス』に連載を開始した「吾輩は猫である」によってでした。

 作中に繰り広げられる果てしのない会話は、生前の子規と交わしたものだったのかもしれません。だとすると、「吾輩は猫である」を一番読んで欲しかった人は、子規その人だったのではないでしょうか。(水)

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■参考文献・リンク
※1  岩波書店 漱石プロジェクト @IwanamiSoseki
※2 漱石全集・赤い表紙だったと思うので『岩波書店 漱石全集』のようです。
※3 『子規全集』(全22巻/別巻3巻・講談社) ( )内のルビはすべて筆者追加
※4 「墨汁一滴」(明治34年1月16日~7月2日まで新聞『日本』連載)
※5 「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」より

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◆傑出した名君、プミポン国王

 10月13日、タイ王国の長い歴史において名君の誉れ高いプミポン国王が亡くなられました。
 タイの1バーツコインから高額紙幣まで、プミポン国王の肖像は幅広く使われており、国民に敬愛されたその一生は、常にタイ国民と共にありました。

 在位期間70年の長さはもとより、揺れ動くタイの政治状況を的確に導く手腕は、まれにみる名君主と世界中から讃えられています。

◆タイとはどんな国か、タイ人を深く知るには

 日本に住む私たちにとって、甘酸っぱいトムヤムクンや最近流行りのマッサマンカレーなどタイフードは知っていても、タイがどのような国なのか、どんな文化があるのか、あまり知られてはいません。

 タイについてもっと本質を知りたいと考えている方に、最適な一冊があります。

『タイ駐在のタイ入門』(著:桑野淳一・大西純 連合出版)

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 初版は2007年と10年近く前になりますが、タイ国民の気質、文化など深く掘り下げた本となっており、いま読んでも内容はまったく古びていません。

◆深くて味のあるタイ人の気質

 訪タイ歴40年になる筆者ですが、この本で改めてタイ人の気質について気付かされたこと、発見できたことをいくつかご紹介しましょう。

・華僑、日本人など、タイ社会は古くから外国人に寛容であり、自然な形で国際化を受け入れてきた。

・タイ人を日本人と同じ仏教徒と思ってはいけない。タイ人はバラモン教、ヒンズー教、民間信仰などをベースにした仏教徒であり、単純ではない

・タイ人の「いいかげん」は「良いかげん」でもある。優柔不断と思わせる態度にはそれなりの理由がある

・バラモン教とヒンズー教の違いについて

・ピー(精霊)とは何か

 この本と出会うまで気付かなかったタイ人の考え方や心のよりどころを、おぼろげながら感じ取ることができました。

 観光だけではなく、タイという国、タイ人という民族を、幅広くまた深く知るには、ぜひ押さえておきたい本です。(水)


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 1912年、イタリアで発見された「ヴォイニッチ手稿」(※1)。謎の文字と挿絵が意味しているものは何でしょうか。15世紀の錬金術を記録したものと言う人や、暗号という人、インスピレーションで解読したと発表する人あり。お金目的のイタズラ書きと推察する研究者(※2)もいますが、結論はまだ出ていません。

 現物はアメリカ・イエール大学図書館に保管され、この古文書に秘められた謎の解明が進められています。
The Voynich Gallery(YALE UNIVERSITY)
(全ページを公開)
ヴォイニッチ手稿 - 完全図版集 (Kindle版 340円)
(Amazon サイト 「なか見!検索」で数ページ閲覧可能)

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※図版はいずれもイエール大学図書館「The Voynich Gallery Beinecke Rare Book & Manuscript Library」より

 そして、ついさきごろ複製本が出版されることになりました。

謎に包まれた「ボイニッチ手稿」、スペイン出版社が複製制作へ
 洗練された文字列と奇妙な植物や裸の女性の挿絵が描かれたこの古文書をめぐっては、神秘的な力が宿ると一部では信じられており、その解読に生涯を捧げる専門家もいる。現在は、米エール大学(Yale University)のバイネッケ図書館(Beinecke Library)で厳重に保管されており、ごくまれに保管庫から姿を現す程度だ。
 だがこのほど、スペイン北部の奥地に佇む小さな出版社「シロエ(Siloe)」が、同手稿の複製を制作する権利を得た。承諾を得るまでに約10年を費やしたという。
 古写本の複製を専門とする同出版社は、ボイニッチ手稿の正確な複製898部を制作する。複製では、羊皮紙上の染みや穴、破れの縫合まで忠実に再現される。
AFP BB NEWS 2016年08月22日掲出)

 複製本を制作するに至った理由は、多すぎる閲覧希望に対応するためだそうです。この複製本の価格はまだ不明のようですが、いったいおいくらになるのでしょうか。気になります。(水)

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※1 『解読不能の奇書「ヴォイニッチ手稿」の年代が特定される』
 (Gigazine 2011年2月14日)

※2 「ヴォイニッチ手稿の謎」
 (日経サイエンス 2004年10月号掲出)

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 8月15日は終戦の日。日本が太平洋戦争に負けた日です。71年前のこの日をもって日本国ではなくなった台湾、朝鮮半島、さらには中国東北部、かつての満州国から大勢の日本人が帰国することになりました。いわゆる「引き揚げ」です。
 筆者が生まれる前のできごとでもあり、身近な体験者もおらず、引き揚げと聞いても何のことか、想像すらできませんでした。

 このたび「わが母 最後のたたかい ‐介護3000日の真実‐」(相田洋著・NHK出版)を読む機会があり、その過酷な帰国までの道のりがようやく理解できました。

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 筆者としては、介護とはどんなことをするのかな、と思って手に取った本でしたが、それ以上の貴重な体験談に出会うことができました。

 著者の相田洋氏は、敗戦時にはわずか9歳。警官であった父の赴任先、満州に母と二人の幼い弟との四人で住んでいました。父はすでに招集されて不在のため、男手のない家族は住む家や金品を奪われ、厳しい冬の寒さと食糧不足に何度も生命の危険にさらされます。周囲では病に倒れる人、中国人にもらわれる子供が続出する中、看護師をしていた母の医学知識と周囲の助けで、昭和21年11月中旬、奇跡的に四人そろって帰国することができました。

 ここで疑問なのは、なぜ引き揚げに生命の危険にさらされながら、2年近くもかかったのでしょうか。そこには政治的な思惑が深く影響していたと著者の相田氏は語ります。

 まず、大本営が敗戦を目前にして「なるべく多くの日本人を大陸に残置しておく」という方針を立てたこと。これは日本軍がもう一度満州へ進出したとき、日本人を置いておけば役に立つと考えたことが理由でした。
 また、敗戦後の内務省でも「無秩序に引揚を決定せしむることなく」対処することとしています。他にも「在志居留民は成るべく支那に帰化する様取計ふこと」を計画する省すらありました。(著書より一部引用)
 加えて、ソ連が違法に実施した日本人男性のシベリア連行や引き揚げへの非協力的態度、国民党と中国共産党との内戦勃発により、引き揚げ計画が実現する可能性はますます閉ざされていきました。

 ところが、旧日本軍が中国共産党の空軍を創設するなど、残留日本人が戦力化につながる事態となり、これにあわてたアメリカの強い指導により、ようやく日本政府が引き揚げ事業を進めることになったのです。

 こうした経緯を知った著者は、「日本国のエリートたちの冷酷さは戦後の様々な出来事にも通底している。原爆被爆者への対応、水俣病患者への対応(中略)・・・調子の良い時には声高に尻馬に乗り、具合が悪くなれば頬かむりしてトンズラする無責任な偉い人たちである。」(著書より一部引用)と痛烈に批判しています。

 著者の相田洋氏は、元NHKのディレクター。「NHKスペシャル 電子立国 日本の自叙伝」の企画・構成・編集、さらには出演までした敏腕ディレクターです。難しい半導体業界の興亡史を、相田氏独特の歯切れの良い語り口と平易な、しかし薄っべらではない解説がおもしろく、筆者も楽しみに観た記憶があります。

 介護をするにはその人の歴史を知らなければいけない、ということを教えてくれた一冊です。(水)

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 約70年前に戦われた第二次世界大戦、日本側からみると大東亜戦争とも太平洋戦争とも言われています。
 この戦争が起きた原因は、軍部が日本の政治を牛耳ったから、日独伊三国同盟を結んだから、資源を絶たれた日本に残された唯一の方法だったから、とさまざまに言われています。

 言い尽くされた観のある戦争原因ですが、ある書の出版により新たな視点が加わりました。

「日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか」(岩瀬 昇・著 文春新書)2016年1月20日刊

 この本によると、日本は資源、特に石油に関しては決して「持たざる国」ではなかったと言い切っています。昔も今も日本は石油のほとんどは輸入に頼る資源のない国と、社会科や歴史で習ってきたのに、どういうことでしょうか。

 要約して言うと、日本は石油資源をうまく見つけることができず、見つけても活用することができなかった。つまり石油開発の基礎技術が不足していたため、目の前の大油田をみすみす取り逃がしていた、ということです。

 著者が挙げる一例が、サハリン島・北樺太石油の利権交渉の失敗。1925年、日本は建国したばかりのソビエト連邦と日ソ基本条約を結び、北樺太の石油利権を合法的に取得します。一時は年間石油消費量の5%をまなかっていました。ところが1944年の戦争中に、これをわずか400万円でソ連に譲渡してしまいます。
 日本が手放した権益は、著者の見積もりでは、当時でも1億5千万円の価値はくだらないと評価しています。ちなみにソ連は生産した原油で日本に機材費を支払う契約をして、日本の機材で立派な石油生産設備を完成させています。こうしてソ連は元手ゼロ円で、打ち出の小槌を手中に収めたのです。
 サハリン油田は今も、原油・天然ガスを産出しています。90年後の今も続く石油資源を、資源の乏しい戦争中になぜ日本が手放したのか、いまも謎です。

 つぎに著者が挙げるのが、満州国での資源開発の失敗。満州、現在の中国東北部はいまや、いくつもの油田を抱える一大油田地帯となっています。明治時代から油田がある証拠をつかんでいながら、日本はひとつも掘り当てることができませんでした。
 おそらく、アメリカやイギリスなどの先進的な採掘技術を導入すれば、見つけることは可能だった、と著者は厳しく指摘しています。

降下イメージ.jpg
※イメージ合成写真・パレンバン付近に降下する兵。

 最後に石油資源を求めて、南進、つまり東南アジアの油田を押さえに行った日本軍でしたが、ここでも大きな過ちを犯しています。日本に原油を運搬するタンカーの護衛を日本海軍はほとんど行っていませんでした。その理由は海軍は米軍との戦闘に専念するため
 大本営ではタンカーの損失率を10%と計算していたはずが、1944年にはほとんどのタンカーを失い、川にまであふれる原油を日本に運ぶ方法がありませんでした。

 アメリカは1940年、ドイツとの戦争に入ったイギリスなどを支援するために、武器貸与法(レンドリース法)を、議会で一年近く論戦を繰り広げてようやく成立させています。当時の論争を読むと「軍需物資を満載した貨物船を米軍が守ることの是非」を激しく論じ合っています。貨物船を守る米軍は、結局ドイツ軍と戦わざるを得ない。それは米国がヨーロッパ戦争に引きずり込まれることになる。だから武器貸与法に反対、という正論でした。これに対する当時のルーズベルト大統領は、「あなたたちの息子を異国の戦争に送り出すことはしない」と言って再選していましたから、この法律を通すために大変苦労したようです。(『ルーズベルトの責任 「日米戦争はなぜ始まったか」』(チャールズ・A・ビーアド 著/藤原書店)より)

 原油を取りに行くため立ち上がったはずが、それを運ぶ詰めができていなかった日本。一方で軍需物資がなければ戦争はできないという基本を守り通したアメリカ。戦う前から勝負は付いていたような気がしてなりません。
 なお、イギリスがレンドリース法で借りた分の米国への返済は、なんと2006年までの61年間も続いたそうです。

 著者は商社でエネルギー関連業務に従事した方です。エネルギーアナリストとしての確かな目で、明治維新以降、日本が取ってきたエネルギー政策を評論しています。
 この本にはいくつもの新しい視点が提示されていて、興味の尽きない資料集ともなっています。
 ひとつ筆者の私が気になるのが、日本海軍はオクタン価92のガソリン製法を、最後まで日本陸軍に教えなかったという噂。著者の岩瀬氏は、当時の日本の精製技術では、オクタン価92の航空揮発油は製造できなかったはずだ、と推察されています。どちらが正しいのでしょうか。
 どなたか当時の軍事技術に詳しい方に、再検証していただきたいテーマですね。(水)


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 今日から7月。本格的な夏の到来はもうすぐですね。夏と言えば、トマトにキュウリ、オクラ、トウモロコシなど夏野菜のおいしい季節です。

 ところで、夏野菜についてこんな声を耳にしたことはありませんか。

 かつて食べていたトマトやキュウリは、野菜臭さにあふれて、濃い味だった。「野菜の命を齧(かじ)っている味がした。」
 ところが、最近店頭に並ぶ夏野菜は、こぎれいに揃ってはいるが、昔の野菜の味がちっともしないなぁ、なぜだろう。

 こう感じている方は少なからずいらっしゃることでしょう。筆者もそのひとりです。

 その理由は、ただひとつ。昔の野菜と今の野菜はまったく別物だからです。作り方や肥料が昔と今とは違うという事ではありません。野菜の形こそ似ていますが、現代の野菜は昔の野菜から、同じ性質、同じ遺伝子を引き継いではいないのです。

 なぜか。それは、そもそもの種の成り立ちが違うからです。

 店頭に並んでいる野菜は、今ではほとんどがF1という、種苗メーカーが創出した「特別な品種」なのです。

 このことをわかりやすく解き明かし、現代の種苗と食について考察した本があります。

 「タネが危ない」(野口勲・著:日本経済新聞出版社・刊)

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 この本の著者である野口勲氏は、種苗店の経営者でもあります。種ビジネスの世界を長年見続けてきた著者が、現代の農業に対して肌で感じたこと、将来への危機感をまとめた警告の書と言えます。

 さて、F1とはなにか。細かな説明を省いて言うと、病気に強く、大量に均一の野菜ができるよう、人工的に創出された植物のことです。

 私たちが口にする最近の野菜は、このF1野菜がほとんどといわれています。F1野菜の特徴は、同じ大きさ、同じ味はもちろん、耐病性や収穫時期もまったく同じ。同一サイズが一度にできることで、機械を使った収穫や梱包に適し、出荷のタイミングを調整できます。また均一のサイズですから、同じ価格で販売したいという販売サイドの要請にも対応できます。
 昔から代々受け継がれて来た味わいのある野菜が、店頭に並ぶことはもうありません。その理由は、現代の流通に求められるこの大量生産・同一規格・同一価格というニーズに当てはまらないからです。昔からある野菜は、生育に時間がかかり、サイズも不揃い、品質にもばらつきがあるため、流通からも販売からも敬遠されています。ですから、野菜の味が昔と違うと感じるのは当然のことなのです。

 もうひとつ、F1の種には種苗メーカーにとって欠かせない性質が盛り込まれています。それは野菜から再生産する能力をなくしたり、種子ができても同じ野菜にならないよう工夫をこらした「一代限りの品種」になっているのです。

 昔の農家は、翌年も同じ野菜を作るために、野菜の一部を採り残しておき、花を咲かせ種を取っていました。農家の軒先に枯れた野菜が干してある光景は、それだったのですね。
 種苗メーカーとしては、毎年種を売らなければ倒産してしまいますから、野菜の生産者に種を再生産されては困ります。
 種を残さない品種、残しても同じものができない品種を、さまざまな知恵を絞って開発し、F1という「一代限りの野菜」を生み出しました。

 このことに著者は、大いなる警告を発しています。
 たとえばおしべやめしべを発生させない、つまり生物としては問題のある野菜を、自然界は受け入れられるのだろうか、と。植物に加えた「人工的な奇化」が他の生命体に、たとえば人にどんな影響があるのか。こうした問いかけが研究もされず、企業の都合だけでF1種が出回ることに疑問を投げかけています。
 つい最近のこと、大量のミツバチが姿を消す現象が、世界的規模で発生しました。いまだに原因がわからないこの問題にも、著者はF1野菜との関連を疑い、大胆な推論を展開しています。

 筆者の印象に残る挿話をひとつ。とある種苗メーカーのF1種研究者が自宅で作って食べる野菜は、野口氏の店から買い求めた伝統種から育てているそうです。不思議な話ですね。

 最後に、著者である野口氏が、自著への批判に対して回答された文章を掲載しておきます。(水)

 「著者です。(中略)過去の学説に囚われず、タネ屋としての実践で得た知識で、タネという生命を考えることができるようになりました。ちなみに、お会いした某農大の育種学の先生は「もしかしたらその通りかもしれない。でもそれを認めたら現在の育種学が崩壊してしまう」とおっしゃいました。また育種学を専攻した某種苗会社の人からは「嘘は言ってないけれど、あんまり暴露しないでね」と言われましたが、「ここが間違っている」というご指摘は、ひとつもありませんでした。」
(amazon ブックレビューより 一部引用)

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 当コラムでは以前、江戸の伝統野菜として東京多摩地区に伝わる「のらぼう菜」をとりあげました。
「[016]カンタン手料理-3 奇跡の野菜、のらぼう菜」(2015年03月20日)

 その際にのらぼう菜の種の入手先として、野口氏のお店をご紹介しています。
「野口種苗 野口のタネ 野口種苗研究所」
http://noguchiseed.com/


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 このところ毎週日曜日の夜が楽しみな筆者です。

 その理由はラジオドラマにあります。NHKラジオ第1では、古くから「日曜名作座」という番組がありました。森繁久弥、加藤道子の二人だけで演じるラジオドラマですが、驚くなかれ1957年から2008年まで51年間も放送が続いたそうです。(ウィキペディア「日曜名作座」より)

 2008年からは「オーディオドラマ 新日曜名作座」と名前を変えて、西田敏行さん、竹下景子さんのおふたりで務められています。

 「新日曜名作座」(NHKラジオ第1 毎週日曜日 午後7時20分~50分)

 この春、筆者は30年前のラジオチューナーを手に入れました。FM、AMなどラジオ番組にダイヤルを合わせるうち、偶然ですが新日曜名作座にたどり着いたという次第。

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 聴き始めは「円朝芝居噺 夫婦幽霊」(原作・辻原登)。人情噺ながら、スリルあり、怪談あり、謎解きあり。名優のおふたりに読んでもらうドラマの楽しさに、今頃になって気が付きました。

 現在放送されているのは、佐藤愛子・作の「晩鐘」(全6回)。
 6月19日(日)の放送で4回目ですが、今からでも十分に楽しめる構成になっています。いえ、本当の修羅場はこれからかも。
 この作品は佐藤愛子氏の旧作と思っていましたが、なんと2014年の最近作でした。90歳を超えてもなお、衰えない創作意欲に敬服するとともに、竹下景子さん演じる主人公が味わう、苦難、はがゆい思いなどに感情移入してしまっています。

 目を閉じて、静かに耳を傾けるひととき・・・ラジオドラマはいいものですよ。

 ラジオをお持ちでない方でも、インターネットラジオで放送を楽しむことができます。いざという時の防災用としても、スマホへのインストールをおすすめいたします。(水)

パソコンでラジオを聴くなら-------------
「NHKネットラジオ らじる★らじる」(無料)
http://www3.nhk.or.jp/netradio/

スマートフォンでラジオを聴くなら-------------
iPhone/iPad用アプリ・「NHKネットラジオ らじるらじる」(無料)
開発:NHK
https://itunes.apple.com/jp/app/nhknettorajio-rajirurajiru/id473937342?mt=8

アンドロイド用アプリ・「NHKネットラジオ★らじるらじる」(無料)
提供元:NHK
https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.nhk.netradio&hl=ja


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 明治維新後の日本は「富国強兵」だったと学校で習いました。強兵は徴兵制の開始、軍隊の創設、軍備の増強でしたね。では、富国とは具体的には何だったのでしょう。

 明治の初め、日本にはさしたる工業もなかったため、輸入品の支払いは蓄えていた金貨・銀貨しかなく、大量の金が海外に流失しました。これでは国は持ちません。

 そのために国を挙げて始めたのが、生糸(きいと・絹糸のこと)の生産でした。ちょうどそのころ、ヨーロッパでは蚕(かいこ)の病気のため、絹糸の調達が困難に陥っていました。
 目を付けられたのが、病気に冒されていない日本の蚕。最初は蚕の卵を輸出していましたが、自前で絹糸を生産した方がはるかに儲かることに気付いた明治政府は、近代的な生産体制を整え、国家事業として生糸生産を始めたのです。

 そうして誕生したのが、先日世界遺産にも登録された「富岡製糸工場」です。設立は明治5年の1872年。
 設立間もない富岡製糸場に女工として集められたのは、まだうら若い10代の乙女達。みな明治どころか、生まれも育ちも江戸時代です。

 「富岡日記」(ちくま文庫・著者:和田英著)は明治6年、著者の英子がわずか満15歳(本の表記では数え17歳)で女工に応募する顛末から始まります。満15歳といえば、いまに直すと中3から高1の思春期真っ盛りのギャルですね。

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 この日記には、全国から集められたお年頃の乙女達が、どのように生糸生産に従事していたのか、また日々の生活をどうすごしていたのかが、活き活きと描写されています。
 おそらく日本最初の職業婦人が誕生したのが、ここ群馬県富岡市だったのです。

 手に職を持つことで、著者は精神的に大きく成長します。

 二等工女に昇進した著者は、ふるさとの長野県松代市に設立された近代的製糸工場に移ります。手腕を見込まれた彼女は、10代後半でふるさとの製糸工場で現場リーダーとして抜擢されたのです。

 エピソードのひとつにこんな話があります。
 横浜の生糸市場に英子達の指導で作った機械織り生糸が初めて持ち込まれました。周囲は手工業で作った真っ白な生糸ばかり。それにひきかえ、機械織りの生糸は少し黒ずんだようにも見えて、同業者たちに笑われていました。
 ところが外国人の評価は違いました。この機械織り生糸ならいくらでも買うと、最高級の値段が付いたのです。
 最先端の機械織りが安定した高品質であることを、海外の買い付け人は知っていたのです。

 「富岡製糸工場」は明治5年に建てられたそのままの姿でいまも残っています。つまり、著者の和田英が働いていた現場がまだ現存しているのです。明治期の建物と言うだけではなく、「富岡製糸工場」こそ近代日本を支えた女性の歴史そのものと言えるでしょう。

 江戸時代にわずかな教育しか受けていなかった娘達が、すぐに近代の工場労働に慣れて、生産に従事していた事実。そして数年後には指導者として全国各地のふるさとに戻り活躍した歴史。これが「富国」の本当の姿でした。

 そのたくましさと知性、行動力を記した行間からは、今の私たちが失ったスピリッツを教えているように思えました。(水)

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「富岡日記」(著者:和田英 筑摩書房・ちくま文庫収録)

養蚕の歴史を知るには・・・
東京農工大学科学博物館(1886年設立)
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 筆者が当コラムの連載を始めたのが、昨年2015年3月。月~金の週5回連載でしたので、3ヶ月を過ぎる頃から、じょじょにネタ切れを起こし、多少の焦りを感じ始めていました。

 そんな時に見つけたのが、読むと元気になるWebコミック「モアイ」。マンガ週刊誌の「モーニング」、「アフタヌーン」などの漫画家さんが連日連夜(更新は主に深夜)楽しいマンガを発表しているコミックサイトです。
 このサイトに出会って以来、毎朝机に向かうと、まずは「モアイ」で新作マンガをチェックするのが日課となりました。漫画家のみなさんが毎日、新作を書いているではないか。自分も書かねば・・・と、良い発憤材料となっています。

読むと元気になるWebコミック 「モアイ」
http://www.moae.jp/

 この「モアイ」の中でも異色の闘病マンガが、今回ご紹介する「ふんばれ、がんばれ、ギランバレー!」です。

 思いもよらぬ難病に見舞われた「たむらあやこ」さんが、ご自身の闘病の日々を振り返って連載したマンガです。元気が取り柄の准看護師だったはずが、発病後はあっというまに寝たきりに。しかも生きる意欲を失うほどの激痛のため、一時は自殺まで考えるようになります。

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 これほどの極限の状態でも、たむらあやこさんはわずかに動く指で絵やマンガを描くことで、他人を元気づけられることに気が付きます。そして・・・。

 このマンガ、2016年の2月頃にいったん連載は終了しています。筆者は少し寂しい思いをしていました。作者のたむらあやこさんは、病気が完治しているわけではないので、週に一回の連載でも相当な負担だったはずです。本当にお疲れ様でした。

 ところが、このたび4月21日に番外編マンガが掲載され、しかも単行本化されて同22日に発売となりました。

「ふんばれ、がんばれ、ギランバレー!」
【単行本発売記念特別番外編】 フロムヘル(2016年4月21日掲出)
(※1)
http://www.moae.jp/comic/funbareganbareguillainbarre

 筆者も過労からか、ひどい関節痛や皮膚のただれに悩まされ、一時期は歩行も困難となり、寝たきりも経験しました。
 病気とつきあいながらも本の出版までこぎ着けたたむらあやこさん。無理せず楽しいマンガをこれからも書き続けてください。(水)

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(※1)このサイトで第1話から第5話まで無料で読むことができます。



 羊の色は白からうす茶色と相場が決まっていますが、青森県で黒い羊、ブラックシープ(black sheep)が生まれました。

突然変異?真っ黒子羊誕生/おいらせの牧場
 子羊の出産シーズンを迎えたおいらせ町のカワヨグリーン牧場で、真っ黒な毛の子羊が生まれ飼育員たちを驚かせている。同牧場によると突然変異とみられるが健康状態に問題はなく、他の子羊たちとじゃれあう愛らしい姿を見せている。
(Web東奥 2016年3月13日・青森のニュース) ※1

 以前、アメリカ人の友人にブラックシープの意味をたずねたところ、
「家族の中でひとりだけいる問題児」
と返されました。

 本当は地域や集団にいる厄介者らしいのですが、家族と言い切った彼には思うところがあったのでしょうか。

 筆者がブラックシープを知ったのは、敬愛するボイントンさんのおかげでした。

 ボイントンさんとは、太平洋戦争中に活躍した米海兵隊(マリーン・コー)の戦闘機パイロット。米パイロットが活躍したと言えば、そうです。ボイントンさんはゼロ戦キラーだったのです。

 日中戦争時には傭兵としてフライングタイガースにも参戦した歴戦のつわものでしたが、何しろ酒癖が悪すぎました。上官をポカリとやっては後方にさげられ、日米開戦の頃には、田舎でガソリンスタンドの給油ボーイをやらされていました。

 一念発起した彼は、海兵隊の上層部とかけあい、「ブラックシープ(baa baa black sheep)」なる名称の航空隊を編成し、太平洋を暴れ回ります。しかし、そんな彼も1944年1月、日本軍機28機目撃墜の直後、自身も撃墜されます。
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 あやうく南太平洋の藻屑(もくず)となりかけますが、通りかかった日本軍潜水艦に救助され、神奈川の海軍施設で捕虜となります。そこで彼を待ち受けていたのは・・・。

 なぜか、日本料理の板場修業でした。ボイントンさんは日本酒の熱燗をつけるのが得意で、人の目を盗んで飲酒することが楽しみだったとか。アメリカ人の目を通して、戦争中の日本人の様子を描いた、貴重な記録となっています。

 捕虜時代のエピソードは、彼の自叙伝に詳しく出ています。
『海兵隊撃墜王空戦記 零戦と戦った戦闘機エースの回想』(光人社刊・申橋昭(訳))※2

 そんなボイントンさんですが、アメリカではエース・パイロットとして有名人で、戦後にはテレビドラマ「Black Sheep Squadron」も作られました。日本では対ドイツ戦線を描いた「コンバット!」は知られていますが、さすがにゼロ戦キラーのドラマは日本では放映できなかったようです。

 このドラマを見たかった筆者は、ベトナム・ホーチミン市にてホテルのテレビでようやく視聴することができました。なぜ、ベトナムで放映していたのか。理由は定かではありませんが、それなりに楽しめました。もちろん、熱燗をつける捕虜時代のシーンはありませんでした。

 映画監督か誰かが、日米合作でボイントンさんの捕虜時代を映画化してくれないかな。(水)

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※1 「Web東奥」のサイトへはこちらから3月13日に進んでください。
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※2=2013年には文庫版が出ています。
『海兵隊コルセア空戦記―零戦と戦った戦闘機隊エースの回想』
(光人社NF文庫)



 NHKの朝ドラで大人気だった『マッサン』。ヒロインが朝ドラ初の外国人女優、シャーロット・ケイト・フォックスさんだったことも何かと話題でした。

 先日筆者は、太平洋戦争中の米軍が、日本占領後にウィスキーを飲めなくなるのは困ると、余市のニッカウヰスキーは爆撃しなかったという逸話を調べていました。この手の話は眉唾が多いものですから。

 そして、検索の結果、偶然にもたどり着いたのが、「私の履歴書 復刻版 竹鶴政孝」(日経電子版)です。

 まさか、竹鶴政孝ご本人が残した回想録があるとは、それまでまったく知りませんでした。「私の履歴書」(日本経済新聞社)の連載は、昭和43年(1968年)とありますので、47年も前に書かれたものです。

「私の履歴書 復刻版 竹鶴政孝」(日経電子版 2014年11月20日掲出)
第1回 運命のとびら ウイスキー造り一筋 多くの人々に助けられて

 すでに朝ドラは終了していますが、日本初の本格的ウィスキー工場を作った方ご本人の回想録ですから、大変貴重な資料だと思います。

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○イラストのボトルは、リタ夫人を見舞いに来た米軍将校へ、
 謝礼として竹鶴政孝氏が差し上げたもの。


 筆者はこの連載記事を読み始めたばかりです。これ以上書くことは止めにして、この週末、ウィスキーを片手に全28話を心ゆくまで堪能したいですね。

 米軍がニッカの工場をわざと爆撃しなかった件は---。
 まあ、酒好きのアメリカ人のことですから、この噂に間違いはないでしょう。(水)

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※「私の履歴書 復刻版 竹鶴政孝」へのリンクは、日本経済新聞社様より許諾を頂きました。



 5月の連休から読み始めて、ようやく読み終わりました。約600ページ、原注まで入れると650ページの『チューリングの大聖堂』(吉田三知世訳、早川書房)、著者:ジョージ・ダイソン・原書名:『Turing's Cathedral』。

 タイトル通りにチューリングの評伝かと思うと少し期待はずれですが、コンピュータが誕生した1940~50年代を臨場感たっぷりに味わえる貴重な一冊です。

 ライプニッツは17世紀末に、すべての自然の摂理は0と1の組み合わせ、2進法で表現できると書き残しました。250年後の1930年代、この2進法を使った電子的なオンオフで、すべての演算が可能なことを証明したのがイギリスの数学者、チューリングです。そして、フォン・ノイマンをリーダーとするチームは、この理論を応用してコマンド、アドレス、アプリケーションという概念を確立し、MANIACを誕生させました。

 現在私たちが使っているPCはすべからく、2進法のCPUとメモリで構成されたハードウェア上でアプリケーションを走らせています。この仕組みは、MANIACの時代からひとつも変わっていないことに驚かされます。
 わかりやすく言い換えるなら、コンピュータとは江戸時代中期に原理が考案され、70年前に完成した極めてクラシックな道具とも言えるのです。
 この本で初めて知ったことがありました。気象予報や流体力学、乱数、人工知能など重要なテクノロジーが、わずか5KバイトメモリのMANIACを駆使して始まったそうです。
 CGでは今なお新たな技術が生まれているモンテカルロ法、自然の描写には欠かせないノイズや確率など、筆者はご先祖様に出会ったような気分で楽しく読むことができました。

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■ノイズを使って描画した仮想店舗(筆者作成)

・参考CG(筆者作成)NoNeedNew
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 興味深い話をひとつ。2005年、米国の大手検索会社ではあらゆる本をデジタル化するプロジェクトを立ち上げていた。その目的は本をデジタル化して多くの人に読んでもらうためでも、電子ブック事業を立ち上げるためでもなかった。
 真の目的は、彼らが開発しているAI(人工知能)に世界中のあらゆる知識を覚え込ませるためであった。

 今もこのプロジェクトは進行しているのでしょうか。
 後でググってみようかな。(水)



 以前にこのコラムで紹介した「私の履歴書」連載の「ニトリ社長の規格外人生」ですが、その元になる本がありました。
『落ちこぼれでも成功できる-ニトリの経営戦記-』
(著者:大下英治 徳間書店 2013年刊)

 「私の履歴書」で話題となった似鳥社長の仰天エピソードはこの本に出てきますが、四百ページ近くもあるので、より詳細に内容を知ることができます。
 後半部分では、これからの経営計画が詳細に語られており、2015年の現在、その計画が順調に推移していることに驚かされます。

ニトリが都市部進出を強化 銀座出店に続き大阪・心斎橋にも年内
 家具大手のニトリホールディングスは、大都市の中心部への出店を強化する。24日に東京・銀座の百貨店プランタン銀座に新店舗をオープンしたのに続き、年内には、大阪・心斎橋周辺にも出店する計画を明らかにした。このほか、東京・新宿や渋谷への出店も検討する。
産経ニュース・経済 2015年4月24日)

 ニトリでは台湾で苦戦しながらも店舗を16店に増やし、中国本土にも進出、アメリカへの進出も始めていると書いてありましたが、以下の記事を見ると、わずか一年余りで米国で5店舗を展開しています。ヨーロッパ進出がいつになるのか興味は尽きません。

ニトリが中国に4店目を出店
 家具販売のニトリホールディングス(HD)は19日、中国で4店目の店舗を江蘇省蘇州市に29日オープンすると発表した。同社は海外では米国に5店舗、台湾で20店舗を展開しており、「中国も含め今後も積極的に海外展開を図る」(広報)としている。
産経ニュース・経済 2015年5月19日)

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 この本の中で興味深かったお話をいくつか取り上げます。

 ●印刷したお札を砂糖引換券として配布。通貨偽造罪に問われた似鳥社長。
 ●やつれ顔を化粧で隠した似鳥社長は500万円の融資を勝ち取った。
 ●失敗を恐れるな。うちは見切り発車の会社なんだ、と言い切る似鳥社長。
 ●東京本部を赤羽に決めたが、そこにはまだ稼働中の他社工場があった。
 ●「儲けてやる」ではなく「儲かる仕組み」を作れ。
 ●ニトリの従業員最高齢は81歳(2013年当時)。

 面白がっているだけでは、その人の本当の実力は分からないものです。ニトリ躍進の理由は何か。それはニトリに行ったことも買い物したこともない筆者でも、ニトリの5年後、10年後の目標がわかってしまうことです。おそらく従業員の皆さんならもっと知っているはずで、働くモチベーションにも良い影響を与えていると思います。

 この本を読んで、どんな業種であれ、やみくもに働いているだけではダメなことに、なるほどと得心が行きました。
 似鳥社長はもちろん、ニトリに興味のある方は、ぜひご一読をオススメします。(水)



 高校生の頃、テレビで映画『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー監督、1959年作)を見た。
 コロッセウムで繰り広げられる戦車戦(馬が引くやつ)、地中海の海戦などスペクタクル活劇に興奮したが、解せないことがひとつあった。新学期が始まったばかりで世界史の授業はローマ帝国をやっていた。これ幸いと世界史を受け持つ碇先生に聞いてみた。
 「ベン・ハーは奴隷から兵士になったり政治家になったりしますが、身分がこんなにかわることって当時はできたのですか」
 碇先生は困った顔のまま返事はしてくれなかった。たぶん映画の絵空事を歴史に持ち込まれても、という気持ちだったのだろう。仕方がないので、緑の背表紙で「世界史は俺にまかせろ」と言ってそうな分厚い本(17巻もある)も読んだが、ベン・ハーのようなやつはひとりも出てこなかった。

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 数十年経って、ようやくこの疑問を解いてくれる本が見つかった。


 『White Gold 奴隷になったイギリス人の物語 -イスラムに囚われた100万人の白人奴隷-』(アスペクト:仙名紀=訳)
 1715年、イギリス南部に生まれ育った11歳の少年は地中海を航海中、イスラム勢力の海賊船に捕まった。北アフリカのモロッコへ送られて、死と隣り合わせの白人奴隷から王宮の衛兵、兵士、指揮官へと望外の出世を遂げる。イスラム教に改宗して妻子も得たが、しょせん白い肌、青い目のイスラム兵。帰国の望み捨てがたかく、脱走を試みたのだが・・・。

 トルコのイスタンブール、アレキサンドリア、トリポリ、チュニス、アルジェ、モロッコのサレ。これらの都市にはキリスト教徒の奴隷収容所があり大規模な奴隷市場で繁栄していた。ヨーロッパ中から拉致された白人奴隷は常に足かせのまま重労働に使役され、食事はパンと水だけ。監視役は屈強な黒人達で、白人たちは抵抗してもしなくても気の向くままに殺された。


 北米大陸では黒人の奴隷制度が有名ですが、トルコから北アフリカ、モロッコまで、地中海沿岸の広い地域で白人の奴隷制度が一般的だったとは知りませんでした。使われ方は男は城壁や道路、宮殿の建設、ガレー船の漕ぎ手(ベン・ハーと同じ)などの肉体労働。女は妾、召使い、家事手伝いだったようです。モロッコ王宮の豪華絢爛なモザイクタイルは死ぬまで働かされた白人達の手によるものでした。
 キリスト教を捨ててイスラム教徒になれば仕事と妻を与えられ、兵士になったり、時には王の側近として重用されたそうです。しかしキリスト教を捨てた者はヨーロッパでは異端者。火あぶりの刑が待っていたため、改宗には帰国をあきらめる覚悟が必要だったとも。上記のイギリス人のように拉致が子供の場合はスルタンに忠誠を誓うイスラム兵士に仕立て上げ、戦場では危険度の高い最前線に送りだすのが常だったようです。
 ネット社会の今でも何だか似たようなことが繰り返されていませんか。


 8世紀から19世紀までの地中海世界を網羅した好著がもうひとつ。
(『ローマ亡き後の地中海世界 海賊、そして海軍』 全4巻 新潮文庫 著:塩野七生)

 オスマン・トルコではイスラム教を信奉する海賊を帝国海軍の一員とした。彼らはスルタンの威光を背景に8世紀から19世紀までの一千年以上、ヨーロッパ全土で白人狩りを行い、百万人を超す白人奴隷を売買した。特に地中海沿岸、イタリア半島の被害は大きく、海沿いの町は軒並み消滅したため、イタリア人の多くは山奥に住むしか方策はなかった。


 この本を読むと地中海はステキ。ビーチで甲羅干ししたい、とは言えなくなります。でも読めばイタリアの苦難の歴史が少しはわかってきます。
 この事実を知って歴史を見直すと、どこをほめていいかわからない十字軍遠征、島を要塞化したマルタ島騎士団、ローマ市街に背を向けて城壁に閉じこもるバチカン市国の意味がとてもよくわかります。西洋史をいくら学んでも、地中海の海賊も白人奴隷も見事に隠ぺいされていたからわからなかったのですね。

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 マルタの騎士団とは名前はいかしていますが、ロードス島にいた頃からイスラム商人の船を略奪する海賊だったとは驚きです。ローマ法王やイタリアの都市国家は襲わないでねとムスリム海賊に賠償金まで払っていたようですが、その効果は薄かったようです。

 ヨーロッパ社会も細々とですが奴隷解放の努力はしていました。キリスト教団体が民衆から募金をつのっては、数百人単位で取り戻していました。しかし毎年数万人の拉致に比べると焼石に水、マッチポンプとはまさにこのこと。身代金目的の拉致が増える結果となりました。

 「身代金と引き替えに解放」とは、ますますもってどこかで聞いたような言葉です。

 最近、本人の遺骨が発見されて話題になっている『ドン・キホーテ』の著者セルバンテスも5年間の奴隷生活を送ったのち解放されています。

  では西欧の政府はどうしていたのでしょう。16~18世紀当時の西欧大国はイギリス、スペイン、フランスですが、どの国も国境線をめぐる紛争、新大陸への 進出、黒人奴隷ビジネス、植民地争奪戦などで忙しく、自国民がいくら誘拐拉致されても、対策を取ることなかったようです。もちろん貴族や政府要人が拉致さ れた場合は別ですよ。いつの時代も庶民は大変でした。

 北アフリカから白人奴隷が消えるのは、1816年イギリス軍の手によるアルジェ市街の完全な破壊、1830年のフランスによるアルジェリア植民地化、1856年の海賊行為を禁止したパリ宣言でようやく実現したのでした。

 このように地中海の安定のため西欧諸国が取った政策は、イスラム圏主要都市の徹底した破壊と植民地政策でした。各地のスルタン(国王)に退位を迫り、植民地化もしくは親欧政権を樹立させることで直接的・間接的な支配権を握りつづけました。

ギリシャ・ロシア・中国をつなぐ屈辱の感情
 イラン政府と「イラク・シリアのイスラム国(ISIS)」は互いに忌み嫌っているが、両者とも、欧米から受けていると感じている侮辱をはねつけると約束している。
(引用元:日本経済新聞(2015年3月10日付 英フィナンシャル・タイムズ紙 Gideon Rachman))  2015年3月11日 より一部抜粋)

 イギリスの新聞では、中東に限らず、ウクライナ、アジア(中国)で紛争を起こしている国々では国民が過去に受けた屈辱を晴らさなければ問題は解決しないという論調のようです。

 果たしてそうでしょうか。たとえばヨーロッパと中東、キリスト教とイスラム教。地続きでつながる二者の間には東洋に住む私たちが知らない長いかかわりがあった。そこには恨み辛みだけでなく道義的・政治的に先送りされた問題が残ってはいないだろうか。

 産業革命で圧倒的な軍事力を得たヨーロッパ諸国の振る舞いはどうだっただろう。今こそ大国オスマン帝国を解体する「チャンス到来」とばかりに、一千年にわたる屈辱を晴らして溜飲を下げた、としか見えません。

 民族自決の言葉は中東にだけはなかったようです。

 武力で中東・アフリカを支配し分断統治してきた欧州。21世紀の今、そのつけを支払わされてはいませんか。今回も武力で相手を黙らせるとすれば、近い将来にしっぺ返しを受けるのはまたしても庶民になる気がします。

 筆者は極東の外れに生息するただの庶民ですが、「ジハード」を非難する前にもうひとつ覚えておく言葉があるようです。

  「「聖戦」を、イスラム側では「ジハード」と呼ぶ。同じ言葉をキリスト教側では、「グェッラ・サンタ」と言う。聖戦とは、他の神の存在を認めないことが最 大の特質である、一神教の間でしか成り立たない概念なのであった。」(『ローマ亡き後の地中海世界 -1-』163ページ 新潮文庫 著:塩野七生)

(水)



今を去ること数十年前、とある企業で教えられた仕事の作法をご紹介します。

封筒は破って捨てろ

 郵便で届いた封筒は中身を出したらそのままゴミ箱に捨てては・・・いけないのでした。
 中に何もないことを確認したら、袋として使えないよう細かく破るか、シュレッダーにかけるのがルールでした。中身の取り忘れを防ぐためですが、清掃の方が中身を確認する手間をかけさせない心遣いもあったようです。
 封筒には送り主と宛先の両方の住所が書いてあるため、情報の流出を防ぐ意味もあります。もちろん空き封筒の使い回しも厳禁でした。
 最近は用件が手紙でくることはめったにありませんが、いまでも必須のルールとして通用しますね。


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 ところで、私の大学時代の恩師、私宛ての手紙はいつも使用済み封筒を裏返したお手製のものでした。ルール、破ってます。

 あるとき恩師から送られた本を持って師のもとを訪ねました。奥様は本よりその封筒に目を輝かせて、「あら懐かしい。それは私の手作りですよ。本を買うのにお金がかかるから倹約だと主人が言って、沢山作らされましたのよ」
 私には初耳でした。続けてもう一言「もちろん気を使う宛先には使いませんでしたけどね」


 まあ、そうでしょう、教え子にはそんなものでしょうとも。と思うと同時に恩師が貫いた生き方に、
そびえ立つ山を仰ぎ見るような気持ちを覚えました。

 先生は江戸時代の古文書を精力的に集め続け、ついにはご自身の名前を冠する文学コレクションを持つに至ったのでした。
掟も上手にやぶると、山をなすものですね。

 残念ながら、私がその手作り封筒を奥様に披露できたのは、恩師の葬儀の場でした。


雲英末雄編
『江戸書物の世界 雲英文庫を中心にたどる』
(笠間書院)


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