日本の戦艦と言えば、旧日本海軍の「大和」や「武蔵」が有名です。昨年は70余年振りに、「武蔵」が発見されて話題になりました。 実は、日本にはそれ以前にも超弩級戦艦があったのです。しかも2隻も。その戦艦の主砲が、このたび横須賀に里帰りしました。 戦艦「陸奥」の主砲帰郷 80年ぶり横須賀に 神奈川県横須賀市で1936年に戦艦「陸奥」を大改修した際に搭載された全長約19メートル、重さ約100トンの主砲が13日、これまで展示されていた船の科学館(東京都品川区)から、米海軍や海上自衛隊の基地を望む市内の公園に移設され、80年ぶりに帰郷した。 (産経フォト 2016年9月13日掲出) 1920年に建造された戦艦「陸奥」は、旗艦「長門」の姉妹艦として誕生しました。太平洋戦争を唯一生き残った「長門」は、米国の水爆実験の標的となり南太平洋に沈みました。 (コラム [028]大和が沈んだ4月7日に考える旗艦の役割とは ) 一方の「陸奥」ですが、1943年6月に広島で謎の大爆発を起こして沈没しています。 その経緯については『陸奥爆沈』(著:吉村昭 新潮文庫)に譲るとして、なぜ爆発が起きたのか、原因はいまだに明らかではありません。 戦艦として用立てられることなく爆沈したわけですから、共に沈んだ千名以上の犠牲者にとっても、無念としか言いようがなかったでしょう。 ところが、よくよく調べてみると戦艦「陸奥」はいまも活躍していました。もちろん、戦艦としてではありませんが、東日本大震災の復興にも力を発揮していたのです。 戦艦陸奥の鉄 任務は遮蔽材 岩国市柱島沖で謎の爆沈 原発・研究所で重宝 山口県岩国市柱島沖で戦艦陸奥が謎の爆沈をして8日で70年。現場に近い山口県周防大島町にはことしも遺族が集まり、しめやかに慰霊祭が営まれる。1121人もの犠牲者を出した大惨事。人々の記憶は次第に薄れているが、海中から引き揚げられた陸奥はいまも放射線測定装置の遮蔽(しゃへい)材としてひそかに生き続けている。(中略) 金沢大は、福島第1原発事故後、現場周辺で採取された土や水の測定を続ける。「陸奥鉄のおかげでわずかな放射線も検査できる」と話す井上助教は「かつて戦艦として脚光を浴びた陸奥が別の形でいま、存在感を示していることに不思議さを感じる」と漏らす。(久行大輝) (中国新聞 2013年6月4日掲出) 「陸奥鉄(むつてつ)」 今回、調べ物を通じてはじめてこの言葉を知りました。 放射能測定に必要な遮蔽板は、現在の鉄では微量のコバルト60を含んで作られるので用途に適さないのですが、戦前の鉄は製法の違いからそれを含まないため、微量の放射能測定に最適なのだそうです。 「虎は死して皮を残す」と言います。 正確には「虎は死して皮を留め 人は死して名を残す」が正しいことわざですが、まさに「陸奥」にふさわしい諱(いみな)、「陸奥鉄」という言葉が残りました。(水) ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 陸奥記念館 --------------------- 「できる!」ビジネスマンの雑学 ジャンル別 --------------------- 〇ニュースを読む 〇出来事 〇本・雑誌 〇IT関連 〇旅 〇食と料理 〇教育 |
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