4月7日は沖縄戦に向かった戦艦大和が坊ノ岬沖で沈没した日です。
大和型戦艦は大和と武蔵が知られていますが、実は旧日本海軍はそれに加えて、大鳳、信濃と合計4艦もの同型艦を建造していたのです。それにもかかわらず、4艦ともたいした運用もせずにすべて沈められてしまいました。
当時の戦時体制を簡単に言うと、日本の省庁のひとつにすぎなかった海軍と陸軍が個別に戦術を立案し、別々に戦争を行っていました。今にたとえるなら国土交通省と厚労省がなわばり争いをしつつ、二系統で国家運営、つまり戦争を指揮するようなものです。だからおかしなことがたくさんありました。武器や弾薬の共用はできず、燃料を融通し合うなどもってのほか。ついに陸軍は自前で潜水艦や空母まで持つに至りました。スイスが海軍を持つようなものです。
二つの官僚組織は国際政治のかけひきもわからず、止め時も判断できないまま戦力のみの争いに終始し、結果日本全土が無力化された末にようやく敗戦を迎えたのでした。
大和と武蔵は旗艦として扱われながら、その役目も果たさずに終わってしまった感があります。
(写真準備中)
では旗艦とはどういう役割をになうものでしょうか。そして、その存在意義とは。
旗艦、すなわちフラッグシップはいまではよく使われるビジネス用語となっています。フラッグシップ・モデルはメーカーの最高技術を投入したモデルのこと。フラッグシップ・ストアは旗艦店とも言い、アパレル業界ではその売り上げが企業の命運を左右するとまで言われます。
一番力を入れている商品や店、最高の技術の集大成などの意味に使われているようですが、本当のフラッグシップはそれだけではなかったようです。
大和が就役するまで旗艦を務めたのが戦艦長門です。長門は1920年に建造されて以来、1941年に大和に旗艦の座を譲るまで、20年以上も旗艦を務めました。この戦艦については『軍艦長門の生涯 上・下』(阿川弘之著・新潮文庫)にその詳細が綴られています。長門が果たした旗艦としての役割を箇条書きにしてみましょう。
1.抑止力としての役目
長門が作られた1920年代は海軍休日とも言われ、ワシントン海軍軍縮条約(1922)からロンドン海軍軍縮条約の失効(1936)までの期間、軍艦の建造に制限がありました。
そのため長門は設計の段階から世界に仕様を公表されており、おおよその性能、戦力は各国が知るところでした。41センチ主砲を持つ長門は世界のビッグセブンと呼ばれていたそうです。世界最強の兵器が日本に2隻(長門、陸奥)あったわけですから、今で言えば核保有国に等しい軍事大国として認識されていました。そこにあるだけで紛争の抑止力になるわけです。
残念ながら大和は最後までその戦闘能力は明らかにされず、抑止力としての効果は全くなかったといえるでしょう。
2.国力のシンボルとしての役目
自国の設計で国内だけで建造した長門は、当時の日本が持てる技術のすべてをそそぎこんだ戦艦でした。長さ十メートルの測距儀を製造した日本光学はのちのニコンとなりました。とはいえ世界最強を維持するには海外との技術交流、ライセンス技術の導入なども必要ですから、世界から孤立するわけにはいきません。自然に国際交流を促す役目も果たすことになります。長門は平時に香港まで訪問したそうです。ところが現地では「日本にこんな大きなフネがあるはずはないが、英国から借りているのか、アメリカから借りているのか?」「木で作った鉄砲も、このくらい大きくなると、まるで鉄のように固い」と言われる始末。できればイギリスの戴冠式や南米にも行きたかったそうですが、燃料費を捻出できず断念したそうです。
3.災害時の救援船としての役目
長門就役3年後の1923年、関東大震災が発生しました。大連の南、裏長山列島の泊地にいた連合艦隊は
「七十余隻の艦艇をあげて、京浜地区と阪神、または清水港とのあいだの避難民輸送に従事」、
「陸奥も最上甲板に米麦を満載して呉から入港」、
「総数三万四千四百三十一人におよぶ避難民輸送」
だったそうです。ちなみに
「アメリカの海軍と商船隊とは、震災にさいして、多量の資材と食料とを日本に送りとどけて来た。」と当時の米国は今と変わらぬ支援の手をさしのべています。
4.広報活動の拠点
長門は入港した各港で数多くの面会人や見学者を受け入れていたそうです。女人禁制などの言葉はなく、若い女性の訪問は特に多かったようです。
大正十年には
「宝塚少女歌劇団の一行が四五十人、長門の見学にやって来る」、
「彼女たちは美味しい洋食を御馳走になった上、大阪から神戸まで体験航海をさせてもらった」、
「長門の若い士官と宝塚の女生徒たちとのあいだには、長く文通がつづいた」そうです。うらやましい限りです。
昭和天皇は皇太子時代は長門がお気に入りで、八丈島など国内の航海にお召し艦として使われたそうです。
「誰か、(中略)首を突っこ込んで海図を見ている士官がいる。「ちょっとどいてください」と、押しのけたら、それが軍服姿の陛下であった」
南方熊楠がキャラメル箱の標本を献上したのも長門でのことだそうです。
長門は日本を代表するフラッグシップとして十分に活躍した軍艦でした。旗艦とは、技術的にすばらしいだけではなく、それを相手にわからせる広報活動、国民を守るための貢献的活動など、さまざまな役割を担っていたことがわかります。ビジネスでもフラッグシップと言われる存在や商品にも同様のものが求められるのではないでしょうか。
1944年12月7日、昭和東南海地震では名古屋地区が大きな被害を受けました。しかし軍が救助活動をした記録はなかったようです。大和にも旗艦らしい働きをさせてやりたかったと思うのは、筆者だけではないはずです。
(水)
(写真準備中)
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※(「」内『軍艦長門の生涯 上』より引用)
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